【日本S3度目の決戦・1978年「空白の79分」後編】コミッショナーが介入し再開懇願、球団代表が説得

[ 2021年11月20日 12:00 ]

1978年、左翼線のホームランの判定を巡って抗議する阪急の上田利治監督(右)をなだめる金子鋭コミッショナー(左)
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 オリックスとヤクルトの日本シリーズがきょう20日(京セラD 18・00)から始まる。過去両チームの対決は2度。1度目は1978年(昭和53)3年連続日本一のオリックスの前身、阪急ブレーブスとシリーズ初出場のヤクルトスワローズの対戦。第7戦の6回、阪急のベテラン足立光宏の変化球をすくい上げたヤクルト・大杉勝男の打球は左翼ポール方向へ。本塁打の判定に上田利治監督が猛抗議。「空白の79分」と語り継がれる“事件”となった。

 2度目は95年(平成7)イチローのシリーズ初舞台となった仰木オリックスブルーウェーブと野村ヤクルトとの対戦。オリックス3連敗で迎えた第4戦、延長11回裏、一打サヨナラ=日本一となる1死一、二塁。オリックス・小林宏とヤクルト、トーマス・オマリーの14球の息を飲む対決は「平成のシリーズ名勝負」として記憶されている。

 過去の2度の激闘を前・中・後編で振り返る。

【1978年「空白の79分」後編】

~金子コミッショナー怒気「頭を下げてもダメか」~

 実際に大杉の当たりは本塁打だったのか、ファウルだったのか?当時の中継映像での判別は難しい。選手の証言はどうか。まずは当事者の大杉から。

 大杉「ポール横の網の上を通過するのを確認して走った。微妙だがホームラン。(三塁側)ダッグアウトの位置じゃ判断できないよ」

 三塁の守備位置で打球の行方を確認していた阪急・島谷「急に切れたのでその瞬間ホッとした」

 阪急・松本正志「ポール下のブルペンでちょうど投球練習をしていたが完全にポールの外を通った。ファウルだった」
 
 後楽園のスタンドにはいらだちが渦巻いていた。ファン同士のつかみ合い。「早くやれ!」ヤジが飛んでいた。業を煮やした金子コミッショナーが三塁側ベンチで上田監督に直談判した。
 
 金子「僕がお願いする。それでもダメか」

 上田「やるいうよるんですから。審判代わってもらったら」

 金子「アンタどうしてもそれを突っぱるのか。コミッショナーが頭を下げて頼んでもダメか」

 上田「審判にそれをいってもらったらどうですか」

 阪急・渓間球団代表「コミッショナーの話だけは聞いてくれ」

 金子コミッショナーは強い口調で再度再開を促した。阪急球団も山口オーナー代理、渓間球団代表が上田監督を懸命に説得。ようやく中断から79分後の午後4時13分試合開始に応じた。
 
~明暗79分、松岡は「最高の休憩」足立は「投球不能」~

 前代未聞の長時間抗議。最大の被害者の1人ともいえるのがヤクルト・松岡だが、スポニチ本紙で連載された「我が道」で松岡氏は当時をこう振り返っている。「疲れがピークにきていた私にとって『中断』は『休憩』だったのである。もうちょっと休ませてくれ、もうちょっと休ませてくれと思っていた。肩を冷やさないようにキャッチボールをしながら、緊張と疲れで硬くなっている体をほぐした。スタンドの観衆を見ているうちに、精神的にもどんどん落ち着いていった」

 一方の阪急・足立は膝の状態が思わしくなく続投は不可能だった。代わってマウンドに上がったのは高卒ルーキーの松本。前年東洋大姫路のエースとしてあのバンビ坂本と投げ合い全国制覇を果たしたドラフト1位左腕だ。シリーズ初登板の19歳はチャーリー・マニエルに1発を食った。8回大杉は3番手・山田からシリーズ4号ソロ。正真正銘の本塁打で日本一を引き寄せた。

 第7戦の夜、上田監督は都内宿舎で辞意を示唆。翌23日未明、梶本、中田昌宏コーチらに辞意を伝えた。一方、23日午前9時、福本、山田らが音頭をとり緊急の選手会を招集。上田慰留を決議した。午後1時過ぎ、上田監督は大阪空港着の日航機で帰阪。午後3時過ぎ、大阪・角田町の球団事務所に出向いた。福本ら選手23名が待ち受け、会議室で上田監督に辞意撤回を求めたが翻意はなかった。午後4時過ぎ阪急電鉄本社で森オーナーに口頭で辞意を伝えた。席上、強く慰留されたが退団が決まった。同日夜、梶本新監督が発表された。

 上田利治、この時まだ41歳。若き闘将がシリーズ史に残した「79分間の空白」伝説。5分間以上にわたって抗議を続けると遅延行為として退場処分を科され、リクエスト制度が導入された令和の日本プロ野球で伝説が再現されることはない。

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2021年11月20日のニュース