15年ぶりに“見た”田中将大の「ごめん」 五輪の舞台で垣間見えた日本野球の美点

[ 2021年8月3日 14:25 ]

<第88回全国高校野球選手権大会決勝>8回裏、ピンチにマウンドに集まる駒大苫小牧ナイン。右から2人目が田中将大投手(2006年8月20日、甲子園球場)
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 【内田雅也の広角追球】『あゝ甲子園』というテレビ番組があった。1977(昭和52)年の4―9月、土曜夜10時半、大阪・朝日放送(ABC)。高校野球のドキュメンタリーだった。

 制作会社テレビマンユニオンの萩元晴彦が毎回、冒頭で口上を述べる。現場に迫る企画や取材が際立っていた。

 夏の甲子園大会が終わった週は決勝戦、東洋大姫路―東邦の分析だった。東邦の1年生投手、坂本佳一は「バンビ」と愛称され、アイドル的な人気を呼んでいた。

 1―1同点の延長10回裏、東邦の守り。2死二塁となり、3番投手の松本正志(後に阪急)を迎えた場面。タイムを取り、内野陣がマウンドに集まった。

 番組ではこのシーンのVTRを読心術の専門家に見せ、マウンドでどんな会話がなされたかを分析していた。画期的な試みだった。

 3年生捕手の大矢正成(現NHK高校野球解説者)や主将・三塁手の森田泰弘(後に東邦監督)らに坂本は「勝負したいなあ」とつぶやいていた。いや、唇からそう読めたのだった。

 伝令を通じた監督・阪口慶三(現大垣日大監督)の指示は「際どいところを突け」。初球、ボールとなり、指示は敬遠に変わった。

 この後、4番・安井浩二に右翼ラッキーゾーンにサヨナラ3ランを浴びて敗れるのだった。

 この読心術。素人でも唇が読める時がある。

 2日夜の東京五輪野球準々決勝、米国戦。日本代表の先発投手、田中将大(楽天)が4回表、M・コロスバリーに左前打され、2点目を失ったとき、内野陣がマウンドに集まった。この時、テレビ画面を通じて見えたのは、田中が「ごめん」と言うシーンだった。

 田中が「ごめん」と言う、いや言ったのを“見る”のは15年ぶりだった。もちろん、その間も「ごめん」はあったのかもしれないが、はっきりと画面で見てとれたのはあの夏以来である。

 2006年の第88回全国高校野球選手権大会の決勝戦再試合。駒大苫小牧のエース・田中は6回裏に3点目を奪われた後、ベンチに戻ると、大声で「わりぃ! ごめん!」と発していた(と見えた)。

 この大会。3回戦・青森山田戦でも「ごめん」を見た。監督・香田誉士史(現西部ガス監督)があえて2番手、3番手投手を先に投げさせ、田中のワンマン性払拭(ふっしょく)をはかったと言った試合である。

 こうした「ごめん」について、ノンフィクション作家・佐山和夫(野球殿堂入り)が日本野球の美点だと指摘している。

 「アメリカの高校生はピッチャーが暴投してキャッチャーが捕り損ねると“それぐらい捕れよ、おまえ”って言う。キャッチャーは“おまえこそ、もうちょっとましな球投げろよ”って言い返す」。日米親善野球で全日本高校選抜チームと渡米した際の話を桑田真澄との対談で語っている。『野球道』(ちくま新書)にある。

 「日本の場合、暴投したらピッチャーが“ごめん”と謝るから、キャッチャーも“スマン、スマン”とか言って、それで済む。ところがアメリカ人は決して自分から謝らないし、それどころかおれはちゃんとやってるのに、と相方が悪いと弁解する」

 確かに、チームやナインを思い、素直に謝る、心から悪いと思うといった姿勢は、日本野球の美点だろう。

 田中は昨年まで7年間在籍した大リーグ・ヤンキース時代「ソーリー」と謝っていただろうか。

 米国戦は「ごめん」の後、同点とされる3点目を失って降板となった。悔しい結果だったが、まだ五輪でやり返すチャンスはある。日本野球の美しさも見せてほしいと願っている。 =敬称略= (編集委員)

 ◆内田 雅也(うちた・まさや) 1963(昭和38)年2月、和歌山市生まれ。記事で引用した『あゝ甲子園』が放送されていたのは中学3年のころ。土曜夜10時半、毎週食い入るように見た。番組のテーマ曲『君よ八月に熱くなれ』は後に朝日放送(ABC)高校野球中継や『熱闘甲子園』で使われた。ドーナツ盤のレコードを買い、B面の『真赤な風』は今でも歌える。

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