大島康徳さん死去、70歳「寿命を生ききった」がん余命1年から4年8カ月

[ 2021年7月6日 05:30 ]

18年4月、笑顔でインタビューに答える大島康徳さんと奈保美夫人
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 中日、日本ハムで通算2204安打を放ち、日本ハムの監督を務めた大島康徳(おおしま・やすのり)さんが6月30日午前、大腸がんのため東京都内の病院で死去した。70歳だった。大分県出身。通夜と葬儀・告別式は故人の遺志により近親者のみで行われた。17年2月に大腸がんであることを公表。「余命1年」を宣告されながら、解説者などの仕事を続け、闘病生活を積極的に自身のブログにつづり、多くの人に勇気を与える人生だった。

 野球を愛し、人生を愛した。最後まで前を見つめて歩き続けた大島さんが、天国に旅立った。がん闘病の様子を連日のように発信した自身のブログ「この道」。この日正午すぎ、奈保美夫人が、青空の写真とともに春頃の大島さんの言葉をつづった。

 「幸せな人生だった。病気に負けたんじゃない。俺の寿命を生ききったということだ」――。

 大島さんは17年2月にステージ4の大腸がんと肝臓への転移を公表。16年10月に「余命1年」と宣告されていたことを18年5月のスポニチ本紙の取材で初めて告白した。抗がん剤治療の過程をブログで報告しながら全国の球場を飛び回り、熱心に評論活動を続けた。「球場に行けばアドレナリンが出る。仕事をすることが最高の治療ですよ」と豪快に語るなど、病に屈しない姿で周囲を驚かせた。

 6月3日の入院では腹水3リットルを抜く処置を受けた。退院後は「痩せちゃったんだよね」の報告と一緒に、妻と顔を寄せ合う写真を投稿。献身的な夫人に対する感謝の言葉も添えた。最後の公の仕事は6月12日。エンゼルス・大谷が先発したダイヤモンドバックス戦でNHK・BS1の中継解説を務めた。大谷が1イニングで2つのボークを取られた場面では「許しがたい」と、すでにかすれた声で審判の判定に疑問を呈した。その後、6月17日に再入院。同24日から在宅看護に切り替えたが、30日に力尽きた。

 現役時代は中日、日本ハムでプレーし、長身で端正なマスクと豪快な打撃で一時代を築いた。当時を知る誰もがユニホーム姿の大島さんを「熱い男」と表現する。日本ハム監督時代には3年間で3度の退場処分。常に元気いっぱいで周囲を明るくする、裏表のない真っすぐな人柄が愛された。日本ハムの現役時代の背番号は「11」。その後、ダルビッシュ(現パドレス)、大谷が受け継いだ。

 3月26日の開幕日にはブログに「さぁ、皆さん プロ野球を楽しみましょう!」とつづっていた。野球への情熱と、最愛の家族の存在。それこそが過酷な闘病の支えでもあった。4年8カ月の闘病生活。ブログには全国のファンから激励、逆に感謝する声も届いた。

 18年5月。本紙の取材で「人生はどれだけ生きたかではなく、どう生きたかが大切」と口にした。諦めず、前向きで気骨ある生きざま。言葉通りの人生をまっとうした。

 《亡くなる2日前まで自らブログ更新》大島さんが最後に自らブログで発信したのは、亡くなる2日前の6月28日。4度更新し「生きる」のタイトルをつけたブログの中では、「ブログを書くことがきつくなってきました」として「俺がママちゃんに伝える言葉 ちゃんと、皆に伝えてくれよ」とつづった。29日は奈保美夫人の代筆だった。

 ◇大島 康徳(おおしま・やすのり)1950年(昭25)10月16日生まれ、大分県中津市出身。中津工から68年ドラフト3位で中日に入団。83年に36本塁打で本塁打王を獲得するなど2度のリーグ優勝に貢献。87年オフに日本ハム移籍。94年に現役引退。通算2638試合で2204安打、382本塁打。00年から3年間日本ハム監督を務め、06年の第1回WBCでは打撃コーチとして優勝に貢献。現役時代は1メートル82、85キロ。右投げ右打ち。

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2021年7月6日のニュース