レジェンドの祖父、プラカード嬢の母から夢のバトン 親子3代甲子園に挑む市西宮・和田選手

[ 2021年7月6日 06:00 ]

祖父から親子3代の甲子園出場を目指す市西宮・和田周也選手と元プラカード嬢の母・亜紀さん
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 【内田雅也の広角追球】夏の全国高校野球選手権大会開会式で出場校のプラカードを持つことで知られる市西宮(兵庫)に、祖父、母に続き親子3代で甲子園出場を目指す球児がいる。外野手の和田周也(しゅうや)君(17=3年)で「この夏がラストチャンス」と最後の大会に挑む。

 母・亜紀さん(44)は市西宮2年生だった1993年夏、プラカードガール(正式には式典誘導係)として開会式で入場行進した。担当したのは初出場の不二越工(富山)だった。

 亜紀さんの父、周也君の祖父にあたる田谷(たや)文雄さん(故人)は市西宮で2年春夏、3年春と3季連続で甲子園大会に出場した。

 センターで3番、あるいは4番を打つ強打者だった。1964(昭和39)年春の選抜大会では同校の甲子園初勝利、さらにベスト8進出に貢献。3大会5試合で通算21打数8安打、打率3割8分1厘、三塁打2本、二塁打2本と打ちまくった。卒業後は専修大、社会人・日本軽金属で活躍。野球部OB会「柏球会」会長も務めるなど市西宮野球部を支えた。現監督の吉田俊介さん(36=同校教諭)によると「イチニシ(市西宮)のレジェンド」だった。

 会社員で東京勤務だった文雄さんは、亜紀さんが小学6年生になると、大阪への転勤願いを出し、市西宮に通える学区内に転居した。娘をプラカードガールとして甲子園に出してやりたいと願ったからだった。

 父の願いは娘の夢となった。亜紀さんは市西宮に進学し、2年夏の校内オーディションに合格。見事、プラカードガールとして甲子園の土を踏んだ感激を忘れない。

 亜紀さんが結婚、周也君が生まれると、今度は「孫(息子)を甲子園へ」が父娘の夢となった。

 幼いころから野球に親しんだ周也君は右投げ左打ちだ。「物心ついた時には左打ちになっていました」。文雄さんは左投げ左打ちだった。亜紀さんによると、文雄さんが「打つのは左がいい」と仕向けていたそうだ。

 文雄さんは肺がんと闘いながら、周也君の成長を見つめた。病院で少年野球の試合結果を楽しみに待ち、見舞いに来ると、バッティングフォームを見てうれしそうにうなずいていた。息を引き取ったのは周也君が小学4年生の冬、2014年1月20日。67歳だった。

 周也君は「僕もイチニシで甲子園に出たい」と夢を描くようになった。祖父や母から市西宮や甲子園球場の雰囲気をよく聞かされていた。問題は当時、父の仕事に関係で神奈川県川崎市で暮らしていたことだ。少年野球・富士見台ウルフ、中学硬式野球・都筑シニアで祖父と同じセンターで活躍した周也君だが、学区外への進学はできない。

 一計を案じた亜紀さんは中学卒業前に母子で西宮市の実家に転居、住民票を移した。文雄さんが自身に行ったように、学区内に移り住んで受験できるように整えたのだ。周也君は難関の入試も見事合格し、晴れて市西宮の野球部員となった。

 「親子3代、イチニシから甲子園」への情熱には恐れ入る。舞台は整ったが、昨年はコロナ禍で大会が中止となった。最上級となり、造語「快新撃」をスローガンに掲げたチームは昨秋、阪神地区大会で敗れ、選抜出場の夢は消えた。

 最後の夏を前にした壮行会で周也君は「迷惑をかけてきた分、夏の結果で恩返しできるようにしたい」と話した。

 実は父・晃広さん(44=会社員)も立命大アメリカンフットボール部の選手として1998年、甲子園ボウルに出場、大学王座に輝いている。さらに弟・楓生(りゅうき)君(鳴尾中3年)は西宮市中学校連合体育大会(中連体)で甲子園の土を踏んだ。家族で甲子園に出ていないのは周也君だけなのだ。

 市西宮の甲子園出場は文雄さんたちの3度だけで以後途絶えている。周也君が受け継いだ夢のバトンはチームの悲願にもつながっている。

 今年のチームは投打に個性派がそろう。就任12年目の吉田監督は「限られた環境のなか、工夫しながら練習を積んできた。その成果を出したい」と話した。

 兵庫大会は3日に開幕。市西宮は11日に高砂南と初戦を戦う。 (編集委員)

 ◆内田 雅也(うちた・まさや) 1963(昭和38)年2月、和歌山市生まれ。桐蔭高―慶大卒。85年4月入社から野球記者37年目。2007年から執筆のコラム『内田雅也の追球』は15年目を迎えている。和中・桐蔭野球部OB会関西支部長。

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