【東東京】小山台 笑顔の終戦 あと一歩も福嶋監督「甲子園は学校の中にある」

[ 2018年7月29日 16:05 ]

第100回全国高校野球選手権記念東東京大会 決勝   小山台3―6二松学舎大付 ( 2018年7月29日    神宮 )

<二松学舎大付・都小山台>試合に敗れた戸谷(左から3人目)ら都小山台ナイン(撮影・近藤 大暉)
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 紺色リボンのメダルが銀色に輝いていた。「都立の星」として続けて快進撃は決勝で止まった。しかし、堂々の準優勝に、小山台の選手たちの表情は晴れやかだった。台風一過、神宮の青空に笑顔もまた輝いていた。

 閉会式終了後、小山台のメンバーは本塁上に並んで記念写真を撮った。途中でベンチ入り20人が立ち上がり、後方にいた控え部員と前後を入れ替わった。メダルや盾、表彰状を渡し、あらためて写真を撮った。総勢91人の笑顔が並んだ。

 福嶋正信監督(62)が「メンバー外を含めての全員野球が達成できたと自分は思っています」と頼もしく見つめていた。「メンバー外、特に3年生たちが本気になって支えてくれました。それでここまで来られたんです。あんなにまとまるかなあと思うくらい仲がいいんですよ」

 まとめたのは背番号12、「班長」の渡辺泰輝(3年)だという。小山台は野球部を野球班と呼ぶ。主将はグラウンド内のリーダーで、班長は学校や各部との連絡会に出席し、グラウンド外で取り仕切る。

 福嶋監督は「彼は全校生徒の前でも堂々と話せる男です。だから大舞台でも力を出せると思って使いました」と9回表先頭で代打で起用した。結果は一飛凡退だったが、班長の今大会初打席にベンチもスタンドも最高潮の盛り上がりを見せた。

 9回表2死、2年続けて最後の打者になってしまった主将の飯田光塁(3年)が目指したのは「見られる方々から愛されるチーム」だった。それは「かなったと思う」と胸を張った。「球場全体を巻き込んで応援してもらって、試合中もいいチームだなあ、と自分で思っていました」。内野席は満員札止め、外野席も開放しての2万6千観衆の声援が今も耳に残る。

 飯田はスタンドにいた「親友」から帽子のつばに言葉を書いてもらった。マジックで「下手くそな笑顔 やってみな」とあった。「僕は笑うのが下手らしいので……」と言うが、最後は最高の笑顔が浮かんでいた。

 2006年6月、エレベーター事故で亡くなった当時2年生部員の市川大輔(ひろすけ)君の精神は今も生きている。メールアドレスの文言「エブリデー・マイ・ラスト」は部員たちの身上だ。「毎日、今日が最後というつもりで精いっぱい生きる」。福嶋監督は「この10数年、市川大輔とともに歩んできた。最後に勝てなかった……大輔、ごめんなさい」。スタンドでは母・正子さんが後輩部員たちの雄姿を見つめていた。

 旧制・東京府立八中、難関大学に多くの合格者を出す有数の進学校だ。29日は本来、模擬試験だったが、決勝進出を受け30日に延期されていた。飯田は「あ、明日模試だ。忘れていました。今からスイッチ切り替えて勉強しないといけません」と苦笑いした。

 甲子園まであと一歩、何が足りないのかと問われた福嶋監督は「さあ、よく分かりません」と少し考え「練習時間ですかね」と漏らした。連日、午後5時完全下校や狭いグラウンドなど環境は厳しい。だが「時間や環境など、与えられたなかでやるのが高校野球だと思っています」と言い直した。

 「私学との差は確実に縮まっている」との実感はある。「都立を甲子園に」の合言葉に都立高の指導者が集まり、1980年代につくった「高校野球研究会」の存在も大きい。当初数人だった交流も今では200人以上の会員がいる。スタンドには多くの会員が応援に訪れていた。

 福嶋監督は言った。「学校の中に甲子園(の心)はあって、毎日を精いっぱい生きることによって甲子園(出場)が近づいてくるんだと信じています」

 かつて東大和監督で都立旋風を巻き起こした佐藤道輔さん(2009年他界)が1979年に出した名著『甲子園の心を求めて』(報知新聞社)にあるように、日々練習するグラウンドにこそ、甲子園の心はあるのだろう。この日、その東大和でコーチだった大阪・茨木工科の蛭間俊之さん(59)も「甲子園の心」を見ようと、駆けつけていた。

 だから福嶋監督は「普段の生活が1番。学業が2番目。その次に野球です。文武両道の野球を全国の皆さんに見てもらいたかった」と、周囲の期待の大きさを思い、少しだけ悔しい口調になった。(内田 雅也)

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