【巨人1位・浅野翔吾物語(3)】「少しでも早く1軍で活躍できるように」地元のために描く大きな夢

[ 2022年10月23日 12:00 ]

<ドラフト2022年>父・幹司さん(右)と取材に応じる浅野(撮影・岸 良祐) 
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 原動力はいつも郷土愛だった。小学生時代から飛び抜けた存在。中学進学の際には硬式の強豪チームからの誘いもあった中、浅野翔吾は地元の屋島中で軟式野球部を選んだ。

 「小学校の頃に高松市(の大会)では優勝したんですけど、県で優勝してなくて…。お父さんにも、“その(屋島シーホークスの)メンバーでまた中学校で県1位目指したら”と言われた」

 父の助言を受け、少年野球と同じ屋島地区のチームメートと再び香川県の頂点を目指すことを決意した。3年間の日々で地元の人々からの応援を実感する出来事もあった。

 横浜スタジアムで開催される全日本少年野球大会への出場を決めた3年時のことだ。保護者会を通じて遠征費の募金を呼びかけたところ保護者、OB、屋島町内から当初の予想を超える金額が集まった。当時の屋島中の井上宗誉監督(現・太田中コーチ)は「いろいろな経費がかかるということで、保護者が募金集めに奔走してくれた。そうしたら、予想を超える金額が集まった。地元の方に応援された経験で、さらにそういう思いを強くしたと本人は言っていた」と振り返った。

 小学校から中学校にかけて、高松商の応援を甲子園でした経験や、地元からの声援を受けた経験も決め手となり、高校進学の際も古豪で知られる県内の高松商を選択。もちろん、父・幹司さんも賛成だった。

 「応援に行った中で高商の雰囲気、応援の雰囲気、ブラスバンドとか、すべてにおいて“高商”が好きという感じが彼の中であった。(応援してくれる地元への)恩義というか感謝しないといけないよね、と」

 高松商でも2、3年の夏に甲子園大会に出場し、改めて地元からの声援を実感した。「歩いてたら“頑張れ”とか“甲子園行けよ”とか声を掛けられた。甲子園から帰ってきたら“感動した”“ありがとう”と。そんなことも歩くたびに言ってもらえた。いろんな人が応援してくれてるんだなと思ったら、もっと頑張りたいなと思った」。学校で、近所で、地域で、たくさんの人の声援がいつも背中を押してくれた。

 「いつか活躍して…。高商に専用グラウンドをつくりたい」。人として、野球選手として、大きく成長させてくれた高松商への恩返しも思い描いた。ドラフト後の会見でも「小学校の頃からたくさんの方に応援されて、ここまで来られたので、少しでも早く1軍で活躍できるように頑張りたい」と改めて感謝を強調した。

※(4)に続く

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2022年10月23日のニュース