【内田雅也が行く 猛虎の地】戦後再スタートを支えた合宿所 後に「ミスター」藤村富美男邸

[ 2020年12月2日 11:00 ]

(2)今津

戦後1946年のメンバー。12人がうつっている。後列中央が監督兼任の藤村富美男=阪神球団発行『タイガース30年史』より=

 終戦後の1945(昭和20)年秋、藤村富美男は故郷の広島・呉にいた。進駐軍の雑役で人間魚雷「回天」の解体をしていた。日本野球連盟関西支局長・小島善平から東西対抗戦を行うと電報が届き「また野球がやれる」と体が震えた。

 関西に戻り、寄宿したのが西宮・今津(西宮市津門呉羽町)にあった2階建て一軒家だった。若手数人が暮らす合宿所に使っていた。土井垣武、金田正泰らで入団は藤村出征の後だった。「顔を見ると初めての人が多かった」=『戦後プロ野球史発掘』(恒文社)=。

 甲子園球場は進駐軍に接収され、この今津が一つの基点となった。選手たちは合宿所近くの空き地や道路でキャッチボールをして過ごした。近くの畑から野菜を拝借したこともあったそうだ。

 プロ野球復活を告げる東西対抗は11月23日、神宮球場であり、阪神からは藤村、呉昌征、土井垣の合宿所組に大阪・八尾出身の本堂保次と4人が出場した。

 46年、公式戦再開。監督・若林忠志の復帰は遅れ、藤村が選手兼任で代理監督に就いた。1月時点で選手は9人。2月に新入団3人が加わり12人で再スタートとなった。阪神電鉄の社員にユニホームを着せてベンチ入りさせたこともある。

 シーズン終盤の10月、藤村は代表・冨樫興一の紹介で見合いをし、11月26日に結婚。新居は今津の合宿所だった。住む家もなかった時代である。選手数人と同居だった。

 妻・きぬが新婚当時を振り返り「移ってきたころは田舎すぎてびっくりしました」と話している。西宮市の地域情報誌『宮っ子』(82年8月発行)にある。東京育ち。錦秋高女を出て、日比谷でOLをしていた。

 藤村は呉港中時代、34年夏の甲子園大会で全国優勝した当時も今津の旅館に宿泊しており「ゲンのいい所。この家に住み始めて成績も上がった。ここに骨をうずめるつもりです」と語っていた。

 合宿所の役目を終えた後は藤村の家となった。鈴木啓示(本紙評論家)は育英高時代、同期の三塁手に藤村の長男・哲也がいた。「自宅に行くとあのミスター・タイガースがいる。父親だから当たり前なのだが、大スターを目の前にして不思議な感覚だった」

 藤村は言葉通り、晩年まで今津で暮らし、92年5月、75歳で鬼籍に入った。家は95年の阪神淡路大震災で被災し、きぬは一時期、仮設住宅で過ごした。きぬが夫の後を追って他界したのは2006年6月。その後、猛虎の歴史を刻んだ今津の家は取り壊された。駅周辺はにぎやかだが、その地は閑静な住宅街となっている。 =敬称略= (編集委員)

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