宮本「一番やりたかった」フェンスよじ登り 日本一に未練も

[ 2013年10月5日 06:00 ]

<ヤ・神>フェンスに上がってファンの声援に応える宮本

セ・リーグ ヤクルト2-3阪神

(10月4日 神宮)
 神宮は涙雨――。ヤクルトの宮本慎也内野手(42)が4日、本拠地最終戦となった阪神戦で引退試合に臨んだ。3万966人の大観衆の中、かつての定位置「2番・遊撃」で先発出場。5打数無安打に終わったが、延長11回の現役最後の打席では左翼へ大飛球を放ち、守備でも魅せた。史上初めて2000安打と400犠打を達成した希代の名プレーヤー。守備の人から球界の顔となった宮本が19年間の現役生活に幕を下ろした。

 涙雨が舞い落ちる神宮。感動のスピーチを終え、万感の思いで場内を一周した。そして、最後に向かったのはヤクルトファンが待つ右翼席だった。フェンスを駆け登ると、金網をまたいで「ありがとう!」と叫んだ。

 「あれが一番やりたかった。本当は優勝してやりたかったけど、01年の時はまだそういう選手じゃなかったのでできなかった。あれだけはやろうと決めていた」

 01年とはヤクルトが最後に日本一に輝いた年。この年、宮本はプロ野球記録の67犠打を樹 立し、日本シリーズでも、この日と同じ「2番・遊撃」で出場していた。しかし、MVPの古田、胴上げ投手の高津らがフェンスを登ってファンとともに喜びを分かち合う中、脇役は自ら「日本一の儀式」は自粛していた。12年の時を経て自らが主役となった引退試合。日本一の名脇役は、フェンスによじ登って少しでも近いところでファンに感謝の気持ちを伝えたかった。

 試合でも攻守で幾度となく見せ場をつくった。延長10回1死一、二塁。抜ければ勝ち越しという左前に抜けそうな三遊間の当たりを横っ跳びで止めた。そして、第4打席まで凡退して迎えた2―2の11回の現役最終打席。フルカウントからの7球目を引っぱたくと、打球は左翼への大飛球。サヨナラ本塁打を期待したファンから大歓声が起こったが、惜しくもフェンス手前で失速した。「もしかしたらと思ったけど詰まっていた。そんなうまい話はない。左飛でよかったと思っている」と話したのも宮本らしい。

 8月26日の引退表 明後、この試合まで全て代打からの出場ながら25打数12安打、打率・480と驚異的な打率をマーク。引退を惜しむ声にも「来年もできるじゃなく、あと3、4年できると言われるぐらいじゃないとな」と決意は揺るがなかった。スパイクの前歯も「歯が多いと土が詰まるのが嫌」と野手では珍しい3本歯。グラブもちょっとしたシワや隙間を嫌って5、6個つくり直したこともあるほど、名手ならではのこだわりを持った選手だった。

 引退あいさつでは入団時の監督で「プロ野球で生きるすべを教わった」野村克也氏をはじめ、入団時の担当スカウトだった小川監督ら歴代の監督に感謝。そして、家族、ファン、チームメートら周囲に「ありがとう」を8回繰り返した。五輪、WBCでも長嶋茂雄、星野仙一、王貞治の名将の下で日本代表としてプレーし、主将も務めた。強烈なリーダーシップで、ヤクルトを、そして球界をけん引してきた。今度は自身が監督としてヤクルトを率いる日は近い。

 通算2000安打を放った昨年5月4日の広島戦(神宮)も雨だった。引退会見で「一度も(野球を)楽しんだことがない」と言った男が、何度も白い歯をこぼした。そんな宮本を野球の神様は12回までプレーさせた。カクテル光線に光る涙雨とともに、背番号6が惜しまれながら神宮に別れを告げた。

 ◆宮本 慎也(みやもと・しんや)1970年(昭45)11月5日、大阪府生まれの42歳。PL学園2年夏に甲子園優勝。同大―プリンスホテルを経て、94年ドラフト2位でヤクルト入団。95、97、01年に日本一、12年には通算2000安打を達成。堅実な守備で計10度のゴールデングラブ賞。日本代表では04年アテネ五輪、08年北京五輪で主将を務め、06年の第1回WBCで世界一。05~07年は日本プロ野球選手会の会長。1メートル76、82キロ。右投げ右打ち。

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