阪神新監督・矢野燿大物語

【矢野燿大物語46】右肘は回復せず…ついに「引退」を決意

[ 2018年12月10日 06:00 ]

2010年6月8日、自ら1軍登録抹消を申し出た矢野(右端)
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 鳴尾浜でのリハビリを黙々とこなしながら、矢野はリミットを設けていた。いつまでも長引かせるわけにはいかない。1軍復帰へ全力を尽くしたが、右肘の状態は一向に上向いてこなかった。

 「8月に入って戻られへんかったら、決断せなアカンな…」

 2010年6月8日に自らの申し出で登録抹消されると、同日中に大阪市内の病院で診察を受けていた。診断結果は「右肘内側側副じん帯損傷」。じん帯の修復術を行わなければ、完治は見込めない症状だった。

 「もう一度、全力でボールを投げたい」。手術という選択肢も頭をよぎったが、その場合はスローイング再開まで半年は要するであろう。つまり今季の戦列復帰は絶望。矢野自身に「2年続けて何もしないのは、オレらの立場で許されへん」という思いもあり、最終的には保存療法でのリハビリに踏み切っていた。

 抹消された当初の予定を2週間も前倒しして、7月6日に約30メートルの距離でキャッチボールを再開した。徐々に距離を伸ばそうとしたが、40メートルから先にはなかなか届かない。そして、8月4日に大阪市内の病院で痛み止めを注射。担当医とは2週間で状態が改善されなければ、再診を受けることを確認した。

 1日、また1日と時間が過ぎていく。祈りは届かない。ここでも矢野の右肘が回復することはなかった。襲いかかる激痛は、すでに日常生活にも支障をきたすほどになっていた。両親に現状を報告するため、大阪市平野区の実家へも訪れていた。「もう厳しいかもしれん」。現役引退の意思は固まりつつあった。

 痛み止めの注射から2週間後。症状が改善されることはなかったが、矢野が大阪市内の病院で再診を受けることはもうなかった。8月下旬。妻・裕子に引退の意思を打ち明けた。

 8月30日の朝には、恩師である阪神SD・星野仙一のもとへ、引退の報告に出向いた。「よう頑張ったな」。プロ入りからこれまでの20年間を、思い出話とともに振り返った。

 阪神のチームメートとして切磋琢磨(せっさたくま)を続けてきた同い年・下柳剛と金本知憲には、同じ日にメールを送った。優勝争いに身を置く、2人を気遣い、わざわざ月曜日を選んでいた。「最後にもう一度、バッテリーを組もう」。キャッチャーを大切にしてくれる下柳の心遣いが、胸に染みた。

 9月2日、矢野はいつものように、鳴尾浜球場でマシン打撃などのメニューをやり終えた。その後、向かったのは兵庫県内のホテル。球団首脳と会談し、今季限りでの現役引退の意思を伝え、正式に了承された。

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