阪神新監督・矢野燿大物語

【矢野燿大物語12】両手がボロボロ…過酷だった豊田コーチの打撃指導

[ 2018年11月6日 06:00 ]

豊田コーチ(左)から熱血指導を受ける矢野(後方は落合)
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 母・貞子は瞬時にその光景を理解できなかった。1992年7月18日。前日、東京ドームでのジュニアオールスターに出場した矢野は、久々に帰省していた。風呂上がりでソファに腰掛けると、おもむろに両手に息を吹きかけた。

 矢野が部屋へ戻った後、貞子は父・偉夫に尋ねた。「アキは何してたんやろ」。貞子の問いかけに、偉夫は静かな口調で答えた。「手の皮が、全部むけてしまってるみたいやな」。それは、母親として衝撃の事実だった。可愛い息子が、ボロボロになりながら、闘っている。野球の知識はほとんどなかったが、過酷な毎日を送っていることだけは容易に想像できた。

 翌朝。矢野は何事もなかったかのように、名古屋へと戻っていく。出発前、玄関のドアに手をかけた息子の後ろ姿に、貞子は思わず声を上げそうになった。「もう野球はやめて…」。心の叫びを、すんでのところでのみ込んだ。死にものぐるいで野球に打ち込む息子に、余計な心配はかけられない。貞子は目にためた涙を悟られぬよう「行ってらっしゃい」と送り出した。

 プロ2年目の92年から打撃コーチ補佐に就任した豊田成佑(昇竜館館長)との練習は、し烈を極めた。午前10時すぎから、西区にあった室内練習場で1日がスタートした。当初はティーの連続早打ち20球をこなすのも、簡単ではなかった。その後はナゴヤ球場へ移動し、早出組に合流。ここでもバットを振りまくった。

 連日、連夜のマンツーマン指導に、矢野の手のひらはテーピングがグルグルに施されていた。「何で、ここまで…」。わずかに矢野の顔色が変わることがあれば、豊田は言い放った。「この世界はやったもん勝ち。振った人間が絶対に勝つんだ」。両手の感覚がまひするまで振り込んだ。最後はグリップを握りしめたままになっている両手の指を、豊田に一本一本、はがしてもらった。

 豊田も必死だった。始動時、左肩がセカンド方向に向く悪癖を直すため、打撃ケージの中へ一緒に入った。左肩が真っすぐ投手へ向かうよう、打席の後ろから矢野の右肩をバットで押した。矢野にミスショットがあれば、危険を伴う作業である。未来への情熱が若い2人を支えていた。

 2年目は72試合に出場して打率・259の成績だった。打撃の基礎を築いたかに見えたが、翌93年、豊田は2軍コーチとなった。後年、不調に陥った矢野はヘッドコーチ・徳武定祐に直訴したことがある。「僕を2軍へ落としてください。豊田さんに教えてほしいんです」。豊田に寄せる信頼は、それほど厚かった。

※カッコ内の肩書は2010年当時のまま

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