阪神新監督・矢野燿大物語

【矢野燿大物語41】「なんで高めに構えられへんかったんや…」

[ 2018年12月5日 06:00 ]

矢野は2008年北京五輪準決勝で「1球の怖さ」を再認させれた(投手・岩瀬)
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 白球は日章旗が翻る右翼席へと突き刺さった。呆然と行方を見つめるしかない。矢野はあらためて1球の怖さを知った。2008年8月22日に行われた北京五輪の準決勝。同点の8回裏が、勝負の分かれ目だった。

 1死一塁で、左打席には李承●(火へんに華)=イ・スンヨプ=を迎えていた。マウンド上には左腕の岩瀬。初球の外角速球で見逃しを取ると、速球、スライダー、スライダーの順に続けた。全て外角で2ストライク1ボールと追い込んでいる。運命の5球目、矢野ははっきりと打ち取るイメージが浮かんでいた。

 「外のボールにかなり踏み込まれている。次はシュートしかない」

 内角シュートのサインを出し、矢野は低く構えた。岩瀬も大きくうなずき、矢野のミットをめがけて腕を振る。岩瀬の指先を離れた白球は、バッテリーのイメージ通りの球筋だった。だが、次の瞬間…。イ・スンヨプがフルスイングした一打は、日本の悲願を打ち砕く2点本塁打となった。その後も失点し2―6での敗戦。国民の全てが期待していた金メダルは、夢と消えた。

 試合後、矢野は自分を責め続けた。「もう一度、やり直せるものならやり直したい」。かなうことはない願いだと知りながら、横たわる現実は受け入れがたいものでしかなかった。

 「なんで、オレはもっと高めに構えられへんかったんやろうか」

 百戦錬磨の岩瀬といえど、気心の知れ渡る阪神の投手陣とはやはり勝手が違う。どこかで意思の疎通が、はかれていなかったのかもしれない。日頃から最善の準備を怠らない矢野にとって、それが悔しかった。これが国際舞台の難しさなのか。矢野自身、前夜は一睡もしていない。「怖さ」を感じながらプレーしたのは、この日の韓国戦が初めてだった。

 北京五輪の代表メンバーに選ばれてから、陰ひなたにチームを支えてきた。「打つ、投げる以外の部分でも役割を求められている」。野手最年長。試合中はブルペン捕手を務めたこともある。そして何にもまして、代表監督・星野仙一が求めている野球の最大の理解者と言えた。だからこそ、勝つことで恩返しがしたかった。

 「この経験を残りの人生にいかさなアカン」

 後戻りはできない分、今後の糧とすることを心に固く誓った。

    ◇    ◇    ◇ 

 思えば、初めて1球の怖さを知ったのは、桜宮高で過ごした3年間だった。甲子園を目指して厳しい練習に明け暮れた日々。そのきっかけを与えてくれたのは、親友の存在だった。

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