阪神新監督・矢野燿大物語

【矢野燿大物語20】新天地・仙台から全国制覇目指すには…

[ 2018年11月14日 06:00 ]

1991年6月、大学野球選手権決勝で関大を下し胴上げされる東北福祉大・伊藤監督
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 知人から入った一本の電話で全てが決まった。東北福祉大野球部部長・大竹榮の自宅ベルが鳴ったのは、夜遅くのことだった。桜宮高で伊藤義博の恩師にあたる丹羽武彦がおもむろに尋ねた。

 「伊藤を何とかならないかね?」

 全国制覇をもくろんでいた大竹は、意外にも二つ返事だった。「いいですよ」。こうして1984年秋から、伊藤は東北福祉大野球部監督に就任することが決まった。

 東北福祉と伊藤の最初の出合いは、1979年春だった。大竹が大阪キャンプの実施を発案し、その際、世話役としてタイガー魔法瓶のグラウンドを提供したのが丹羽だった。そこに伊藤も何度か顔を出していた。

 キャンプの成果もあり、同年秋には明治神宮大会への初出場を決める。初戦・明大戦は5回まで4―2とリードして、試合を優位に進めた。だが、後半には自力と歴史の差がはっきりと現れる。

 6回表に一挙8点を失うと、8回にも5点を追加され、最後は6―15の8回コールド負けだった。ショックだった。完膚なきまでにたたきのめされた。雨中のカクテル光線に映し出された、名門のユニホームがあまりにもまぶしかった。

 宮城、秋田、岩手、福島…。地元密着のメンバー構成に、大竹はもはや限界を感じていた。「全国へ出たぐらいで喜んでいてはダメだ」。人前へ出るのをはばかる気質が、東北人にはある。歴史をたどれば、中央から攻められたことはあっても、攻め込んだことはない。

 東京、関西の大学と互角に渡り合うには、その血が欲しい。それは、大竹にとって神宮大会での大敗から数年来の願いだった。そこへ舞い込んできた電話…。激戦区大阪の高校球界で名を上げ、自らも大阪出身である伊藤の招へいに迷いはなかった。

 一方、後日、伊藤から仙台行きを告げられても、妻・明美は高をくくっていた。「この人、寒いの苦手だから、すぐ戻ってくるわ」。翌年には長男・大輔の高校進学も控えていたし、明美は学校給食の職をやめるつもりはなかった。生活の不透明さは、依然として拭えていない。そんな事情もあり、伊藤は身の回りのものだけを手に、知人が運転する軽トラックで一人仙台へ向かった。

   ◇    ◇    ◇

 1986年秋、伊藤は矢野の進路を気にかけていた。東都の名門・東洋大のセレクションを受験していたことは知っていたが、その合否がなかなか出ていなかったのである。「矢野が来てくれたらなあ」。伊藤は静かにその時を待った。

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