阪神新監督・矢野燿大物語

【矢野燿大物語42】野球とバスケ“二足のわらじ”貫いた中学生活

[ 2018年12月6日 06:00 ]

瓜破中時代はバスケットボール部に所属していた矢野だったが、桜宮高では野球部に(矢野家提供)
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 2011年1月15日、大阪市内の高級ホテルでは「桜宮高硬式野球部OB総会」が開催され、式の冒頭で矢野はスピーチした。

 「現役を20年間送れたのは先輩、後輩の方々による応援のおかげだと感謝しております」

 母校が生んだヒーローの言葉に、会場は大きな拍手に包まれた。

    ◇    ◇    ◇

 瓜破小、中学の同級生で親友の成田勉は、早々と桜宮高野球部への入部を決めてしまった。

 「アキちゃんも一緒に入ろうや」

 「う〜ん…」

 矢野はまだ、迷っていた。入学式も終わり、野球部以外にもバスケットボール部からも勧誘されていた。すでに70人近い新入部員が野球部の門を叩いている。

 瓜破中時代の3年間はバスケットボール部に所属していた。硬式野球のシニアチームへ入部することも考えたが「オレのレベルでやっていけるのか?」という不安もあった。ましてや本格的に野球へ打ち込むとなれば、早朝からの弁当づくりなど母・貞子に負担をかけてしまう。土、日のみは軟式野球の「瓜破エンゼルス」に所属したが、部活を休むこともなかった。

 同部の監督であった吉田勇夫は、学校中の生徒に慕われていた。大阪市内の中学校は校内暴力があるなど、風紀は乱れきっていた。「絶対におまえらのことは守るから」。時には警察沙汰になるような事件もあったが、そのたびに吉田は生徒に全力で向き合った。そんな熱血指導に矢野も憧れを抱き、いつしか体育教師を志すようになった。桜宮高の体育科に進んだのは、そのためでもある。

 吉田から見た矢野は文武両道の模範生だったが、3年間で1度だけ部活を欠席したことがある。中3の夏、貞子から電話がかかってきた。

 「申し訳ありませんが1日だけ練習を休ませてください。エンゼルスの最後の試合に出場させてやりたいのですが…」

 熱心にバスケットに打ち込む矢野の姿を見ていた吉田は、まさか野球をする時間があるとは思っていなかった。同級生に確認しても「矢野は毎晩、家の前で素振りしてますよ」と言う。吉田は貞子の申し出を快諾。矢野はエンゼルス最後の試合に出場することができた。

 結局、中学校3年間も、矢野は素振りを1日も欠かすことなく続けた。その原動力は野球への情熱以外の何物でもない。1984年4月の半ば、いよいよ桜宮高野球部への入部を決意した。

 「体育の先生と甲子園。野球部なら両方目指すことができる」

 大阪府屈指の強豪校で不安は大きかったが、「成ちゃん」もいる。運命の分かれ道。選んだのはやはり野球だった。

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