阪神新監督・矢野燿大物語

【矢野燿大物語37】2003年の“輝き”後押しした野口の存在

[ 2018年12月1日 06:00 ]

2002年11月22日、野口寿浩が阪神に入団、タテジマのユニホームにソデを通した
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 人知れず危機感を抱いていた。不動の正捕手として、安穏としたオフを過ごすつもりはどこにもなかった。2002年11月22日。阪神はトレードで日本ハム・野口寿浩(前横浜)の獲得を発表した。「週1回は矢野を休ませる」。監督・星野仙一の狙いはあくまでも2番手捕手としての補強だったが、矢野の心中は穏やかではなかった。

 「力的には五分と五分やし、成績もオレとほとんど変わらへん」

 来るべき2003年へ向けて、矢野は自分自身へ多大なプレッシャーをかけていた。レギュラー捕手だった02年は、本塁クロスプレーでの左肩鎖(けんさ)関節脱臼で4月に離脱。復帰後も8月11日の中日戦(ナゴヤドーム)で死球を受け、左尺骨骨患部骨折を患いシーズンを終えていた。その中での野口入団である。漏れ伝わってくる周囲の声とは別に、矢野は入念な準備を整えた。

 そのかいあってか、バッティングでは3月28日の横浜戦(横浜)から開幕11試合連続安打をマークする。キャッチャーとしても投手陣を好リード。4月18日の横浜戦(甲子園)で首位浮上を果たしてからは、18年ぶりのリーグ制覇へ向けて独走していった。

 「今日は休め」

 「大丈夫です。試合に出してください」

 「アカン!休め」

 星野監督と何度そのやり取りを繰り返したか分からない。矢野のコンディショニングを最優先する星野が折れることはなかったが、逆に矢野の闘争心は刺激された。「オレが何かに勝ってるわけじゃない。負けられへん」。野口の存在が、さらに矢野の好調さを後押ししていった。

 「この世界に入って試合に出られるようになった以上は、レギュラーとして優勝を経験したい」

 1998年に阪神へ移籍後、矢野は念願の正捕手の座をつかんでいた。だが、結果に恵まれることなく4年連続最下位。星野政権となった昨年も開幕7連勝を飾りながら、自身の離脱もあって最後は4位に沈んだ。負けを経験すればするほど、優勝の2文字を渇望する自分がいる。7月8日の広島戦(倉敷)で優勝へのマジックナンバー「49」を点灯させても、矢野が油断することはなかった。

 攻守で矢野が輝けば、チームの死角はどこにも見当たらなかった。後半戦に入っても打率は3割台をキープ。ホームランも自身初の2ケタを超えていた。9月5日の横浜戦(甲子園)では、プロ13年目で初めてとなる逆転サヨナラアーチ。いよいよマジック「5」として、神宮、ナゴヤドームと続く敵地6連戦へと出発した。

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