阪神新監督・矢野燿大物語

【矢野燿大物語30】阪神移籍、捕手一本の喜びかみしめプレー

[ 2018年11月24日 06:00 ]

1997年7月21日、阪神戦で山本昌(中央)の通算100勝をアシスト(左端)、捕手みょうりに尽きた(右端は星野監督)
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 あいさつするのは一度だけと決めていた。1998年3月5日、中日とのオープン戦。前年オフに阪神へ移籍してきた矢野にとっては、初めての古巣との顔合わせだった。試合の方はあいにく雨天中止。矢野は甲子園球場室内で練習する中日ナインのもとへ赴き、その足で監督・星野仙一のもとをたずねた。

 「また、よろしくお願いいたします」

 「おう、頑張れよ」

 これ以降、同一リーグでありながら、矢野は星野へのあいさつへ行くことはなかった。

 矢野が中日に入団した91年のことだった。試合前、相手チームの先輩にあいさつへ行くと、自軍ベンチへ戻ってきてから星野に絞られた。「相手チームとベラベラしゃべっとんちゃうぞ、ボケ!」。食うか食われるかの世界で生き抜くのがプロ野球である。星野の叱責(しっせき)は、プロ野球選手としての心構えを説かれたようなものであった。

 以後、中日時代の7年間は、矢野は愚直にその教えを守り続けた。それは阪神へ移籍しても変わらない。最低限の礼さえ尽くせば、あとは真剣勝負に挑むだけであった。

  ◇  ◇  ◇ 

 「同じセ・リーグやし、何度も戦える。星野監督を、中日を、絶対に見返してやる」

 突然のトレード通告は、矢野にとって大きなショックだった。簡単に気持ちを切り替えられるはずもない。何日も、何日も、重いものを引きずった。それでも、いつまでも下を向くわけにはいかない。同一リーグ間の移籍は救いだったが、それ以上に大きかったのは捕手一本でプレーできることであった。

 「一度、キャッチャーの良さを味わったら、忘れられませんよ。1試合マスクをかぶるのは大変やけど、勝てたときの充実感は凄くあります」

 移籍後、在阪テレビ局によるインタビューに、矢野は生き生きとした表情で答えていた。中日のラスト2年は、外野手も兼任。だが、それは矢野にとって、試合に出るための1つの手段でしかなかった。

 何よりも生きがいを感じていたのは、キャッチャーとしてチームの勝利に貢献できたとき。中日に在籍していた97年7月21日の阪神戦で、山本昌のプロ通算100勝をアシストできたのは忘れがたい思い出だ。「テル、ありがと」。入団時から可愛がってくれた先輩のねぎらいが、何にも増してうれしかった。

 「ミットひとつで勝負や」

 もう外野グラブはいらない。98年春。あとは山田勝彦(現・阪神2軍バッテリーコーチ)らとのポジション争いに勝つだけだった。

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