阪神新監督・矢野燿大物語

【矢野燿大物語21】暗闇の中訪れた東北福祉大受験の誘い

[ 2018年11月15日 06:00 ]

1984年、秋季高校野球大阪大会の閉会式で(手前中央)。高校1年の秋からベンチ入りした
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 矢野は高校3年生の早い段階から、進路を東洋大一本に絞っていた。

 「プロは無理でも、社会人ぐらいは行けるかもしれない」

 小学2年生から、地道な努力を続けてきた野球である。できるものであれば、1年でも長くプレーを続けたい。それには地元に残るよりも、東京の大学の方が有利ではないか…。桜宮高コーチ・岡田龍生(現・履正社高野球部監督)からも、東京で勝負することを勧められていた。

 保健体育の講師でもあった岡田は、日体大を経て社会人野球の鷺宮製作所でプレーした経歴を持つ。同高赴任時は現役を引退した直後で、アマチュア球界ではトップレベルのプレーヤーだった。そんな岡田から見ても、矢野の実力は高校生レベルでは抜きんでていた。

 「矢野なら東京、東都の高いレベルでも十分にやれる」。明大の選択肢もあったが、東洋大には桜宮高の1学年上の先輩が在籍していた。岡田もまた系列校の東洋大姫路OB。そんな縁もあり、岡田引率のもと東洋大のセレクションに臨んだ。

 岡田の見立て通り、東洋大野球部監督・高橋昭雄の目にもとまった。「線は細いけど、いいバッティングをしている。それに肩もいい」。シート打撃では内角の難しいボールを、きれいに左翼線へはじき返した。遠投も120メートルを計測。実技は申し分のない内容だったが、問題が一つあった。実は先だって行われていた夏のセレクションで、捕手の2枠がすでに埋まっていたのである。矢野の試験日はすでに初秋だった。

 高橋も悩んだ。ただ、大学から与えられたスポーツ推薦の枠はもうない。「面白そうな選手だし、どうしたもんか…」。結論を出すのに時間はかかったが、最終的な判定は不合格。苦肉の策として夜間である二部の受験という方法もあったが、この時点で矢野は東洋大進学を断念した。

 矢野にとっては、いきなりの難題だった。社会人はもちろん、どの大学もセレクションはすでに終了している。浪人という考えも全くなく、いわば野球生命の危機に立たされたのである。

 先が見えない日々を、1カ月以上過ごした。何もできないまま、10月の終わりを迎えた。「オレはこの先、どうすればええんや」。不安に押しつぶされそうになる。そんな時だった。隣のクラスの担任から突然、東北福祉大の一般入試受験を勧められたのだ。

 「うちのクラスの生徒も福祉を受けるから、矢野もどうや」

 一筋の光が差し込むと同時に、矢野にとって気にかかることがあった。東洋大に進路を絞った春。実は東北福祉大監督・伊藤義博からの誘いを丁重に断っていた。

※カッコ内の肩書は2011年当時のまま

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