阪神新監督・矢野燿大物語

【矢野燿大物語16】一睡もできなかったトレード通告

[ 2018年11月10日 06:00 ]

1997年10月15日、大豊(中央)とともに中日ナインに別れのあいさつをする矢野(左)
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 来季が飛躍の1年となるイメージは、ふくらみつつあった。ユニホームを泥だらけにしながら、鍛錬の秋を迎えるはずであった。でも今は、それすらも許されない…。中日の秋季練習がスタートした1997年10月15日。ナゴヤ球場を訪れた矢野は、紺のスーツに身を包んでいた。こんなはずではなかった。ナインに別れのあいさつをしている自分の姿が、にわかに信じられなかった。

 「矢野を獲ってよかった、と阪神に言ってもらえるよう頑張ります」

 前日14日に中日、阪神の両球団から2対2の複数トレードが発表されていた。6月26日の広島戦から自己最多の24試合連続スタメンを果たすなど、同年は捕手として60試合に出場。対する中村は96試合と、入団7年目で2歳上の正捕手に最も肉薄した1年だった。

 「中村さんに少しでも近づきたい」。すぐには無理でも、長年の思いが現実になろうとしていた。その矢先…。自らの運命を簡単に受け入れることはできなかった。

 中日から正式にトレードを通告されたのは、13日の午後10時30分だった。トレードの噂はスポーツ新聞、あるいはテレビの情報番組などを通じて、矢野の耳にも届いていた。それでも、実際に球団関係者からの電話が入ると、思わず詰め寄った。

 「相手はどこなんですか?」

 「タイガースだよ」

 トレードの一報に、愛知県出身の妻・裕子は涙した。家族もみんな中日のファンだった。それなのに…。悔しさと興奮のあまり、その夜は一睡もできなかった。

 次の日の朝、恩師であり恩人でもある東北福祉大野球部監督・伊藤義博に、電話を入れた。

 「阪神へトレードになりました」

 「そうか。前向きにやれることをやるしかない。阪神で頑張れ」

 伊藤の落ち着いた声に、矢野は少し気持ちが救われた。プロ入り後もことあるごとに相談していたし、結婚式では仲人も務めてもらった。矢野にとって、かけがえのない存在である。「そういえば、あの時も同じようなこと言われたな」。矢野は7年前のドラフト会議当日を思い出した。

    ◇    ◇    ◇

 「オレの人生がかかってるんや!落ち着けるはずないやろ!」

 東北福祉大の同級生・勝山聖介は、隣に座る矢野の剣幕に驚いた。2人は酒好き部隊に属さない、いわば「マージャン・パチンコ」部隊。行動をともにすることが多かった勝山だが、この時ばかりは普段の矢野と様子が違った。1990年11月24日のドラフト会議。2位指名で中日と巨人が競合し、今まさに、抽選結果が出ようとしていた。

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