阪神新監督・矢野燿大物語

【矢野燿大物語18】恩師との出会いなければ今の自分はなかった

[ 2018年11月12日 06:00 ]

東北福祉大の恩師、故伊藤監督のお墓参りをする矢野
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 2010年12月4日、矢野は東北福祉大野球部OB会出席のため、仙台を訪れていた。仙台空港から直行したのは仙台市青葉区にある「弥勒寺」。ここに元監督・伊藤義博が眠っている。

 「今年まで20年間プロでやらせていただきましたが、引退することになりました。今までありがとうございました」

 心の中で、恩師に現役引退の報告をした。手を合わせながらあらためて思うのは、感謝の2文字しかない。伊藤との出会いがなければ、今の自分はなかった。

    ◇    ◇    ◇

 妻・明美の前で、伊藤はワクワクするような表情を見せていた。

 「瓜破中にいい選手がおるらしいから、ちょっと出かけてくるわ」

 明美にそう言い残すと、大阪市北区中津にあった自宅からいそいそと出かけていった。1984年3月。伊藤は旧知の野球関係者を通じて、桜宮高体育科の入試を突破した「矢野輝弘」という選手の名前を初めて知った。

 公立高ということで、選手の勧誘はできない。だが、わざわざ伊藤が瓜破中まで出向いたことに、伊藤をよく知る人物は一様に「矢野に期待してるな」と感じた。そして、瓜破中でのわずかな時間の面会で、伊藤は矢野の人間性、頭の良さを見抜いたのである。

 伊藤は短い人生の全てを、野球に捧げた人だった。桜宮高から芝浦工大へ進学し、卒業後は軟式野球・三晃印刷(東京)でコーチをしていた。27歳で脱サラし、帰阪。大阪市内で喫茶店「三光」を経営するかたわら、桜宮高のグラウンドへしばしば足を運んだ。「母校に恩返しをせえ」。しばらくすると、恩師で丸善石油野球部元マネジャーだった丹羽武彦から監督就任を打診された。1973年のことだ。

 野球への情熱がほとばしっていた。すぐに快諾し、明美に対しては、事後報告で済ませた。

 「サッコーの監督やることになったから」

 野球中心の生活が始まった。マスターとはいえお昼の繁忙期が過ぎれば、グラウンドへ向かう。経営は明美に任せっきりで、売上金の大半は野球部の強化費用として消えていった。

 猛練習の成果もあり、桜宮高はメキメキと力をつけていった。「うちは公立高校やから」という言い訳は一切禁止。低迷を続けていたのがうそのように、大阪大会でも上位をうかがうようになった。1979年秋に近畿大会初出場を果たすと、81年秋の大阪大会ではPL学園を破って優勝。続く近畿大会でも準優勝を飾り、翌82年の選抜に初出場を果たした。

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