阪神新監督・矢野燿大物語

【矢野燿大物語13】「クビ」を身近に感じ、野球との向き合い方が変わった

[ 2018年11月7日 06:00 ]

東北福祉大でバッテリーを組み、一緒に中日に入団した吉田太(左)と矢野
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 プロ野球という世界の厳しさを、あらためて実感した。3年目を終えた1993年オフ。一つの別れが待っていた。東北福祉大で4年間をともに過ごし、中日にも同期入団した吉田太が戦力外通告を受けたのだった。

 戦力外を知り、矢野が慌てて吉田の部屋をノックしたときは、すでにもぬけの殻だった。大学時代はバッテリーを組み、高校こそ違えど同じ大阪の出身。野球部を引退後は、吉田が住む仙台市内のアパートで同居したこともあった。それがプロ入り後はお互いのことで目いっぱいで、少しずつ会話の機会が減っていった。仲間にも告げず、一人、寮を去っていった吉田の心中はいかばかりか…。毎年10人以上がクビになっているのを見てきたが、それはもはや他人事ではなかった。

 「オレはプロ野球選手になるのが夢やったのに、このまま終わっていいのか」。矢野はしばらくの間、自問自答を繰り返した。相も変わらずそびえ立つ、中村武志という巨大な壁。その年、中村が127試合に出場したのに対し、矢野は捕手としてわずか21試合の出場に終わっていた。

 気の遠くなるような豊富な練習量をこなしてきたが、それまでは受け身でしかなかった。だが、このままでは、終わってしまう。「同じクビになるんやったら、やるだけのことはやろう。それでもプロでは通用しなかった、と思えるぐらいやないとアカン」。ならば自分から動くようにしよう。自ら練習メニューも考えるようになったし、自宅近くの公園では毎晩、黙々と素振りした。野球との向き合い方がここから変わった。

 ただ、課せられた猛練習がムダかといえば、そうではない。プロ野球選手という土台をつくる上では、心身ともに欠かせないものであった。忘れもしない1年目の91年春季キャンプ。豪州キャンプを終え帰国した1軍は、沖縄2次キャンプへと向かった。

 監督・星野仙一の指示に、絶句しそうになった。「おまえら宿舎まで走って帰れ!」。北谷球場での紅白戦。負けたチームは罰走として、20キロ以上離れた宿舎までのランニングを命じられた。

 ただでさえ、一日中、野球漬けの毎日である。クタクタの体に、さらにムチを打たれた。「めちゃ長い。いつ着くねん…」。走れど、走れど、宿舎は一向に姿を見せない。果てしない道のりは延々数時間に及んだ。

 春季キャンプ中、この罰走は2度ならず、3度もあった。「この練習に耐えたんやから、頑張れる」。地獄のランニングと引き換えに、心の支えをもらった。

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