阪神新監督・矢野燿大物語

【矢野燿大物語1】働き詰めだった親父の生きざまが野球人の原点

[ 2018年10月25日 15:00 ]

「瓜破エンゼルス」でもキャプテンを務めた。写真は小学5年生当時(左)(矢野家提供)
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 懸命にペンを走らせながら、強く印象に残った言葉があった。2010年9月3日に大阪市内の高級ホテルで開かれた引退会見。涙ながらに漏らしたある言葉が、矢野燿大の野球人生を象徴していた。「僕の人生の分岐点には、悔しい思いがあった…」。阪神移籍後は2度のリーグ優勝に大きく貢献するなど、球界を代表する名捕手としての地位を築いていった。だが、その裏では志望大学の不合格、1997年オフのトレード、そして昨オフの大減俸と数々の苦難…。大きな悔しさを味わうたび、その肉体には新たな力が宿った。挫折を乗り越えてつかんだ栄光。その長い道のりをたどった。

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 東京遠征のたびに出かけるなじみの店で、矢野燿大は大好物のシロ(ホルモン)を頬張っていた。2009年9月17日。数時間前、矢野は巨人戦での先発マスクを狩野恵輔に譲り、代打での1打席で出番を終えていた。開幕から右ヒジは一進一退の状態を繰り返している。チームは127試合目だったが、その夜がわずか23試合目の出場。「来年ダメなら終わりやな」。矢野は冗談とも本気ともつかぬ口調で笑っていた。

 しばらくの間、他愛もない会話が続いたが、ふと少年時代に話題が及んだ。風呂場で手首を鍛えたこと、自宅前でバットを振ったこと…。遠征中、外食に出かけても、お酒は生ビールを中ジョッキ1杯程度だ。いつものウーロン茶をぐびりと飲み干すと、問わず語りで言葉をつむいだ。「親父はめったに家で顔を合わさんぐらい働き詰めやった。食卓も一緒に囲んだ記憶はほとんどないし。でも、その姿を尊敬しとったからね…。子供ながらに“オレも頑張らなアカン”と思ってたわ」。父親の生きざまに学び、1日たりとも野球の練習を休むことはなかった。野球人としての原点は、幼い頃から培われていた。

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 大阪府のほぼ中心部に位置する、大阪市平野区。古くは戦国時代、大坂夏の陣では徳川家康の本陣があったとされる。人口は20万人を超え、東を仰げば生駒山、高安山、信貴山が連なる生駒山系のなだらかな山地がそびえる。南部には大和川が流れる下町で、大学進学までの18年間を過ごした。

 父・偉夫(ひでお)母・貞子、6歳上の姉・広子、5歳上の兄・雅俊に囲まれたにぎやかな5人家族だった。年齢が離れていたせいか、物心がついてからは兄と遊ぶ時間は少なかった。矢野家では3人兄姉の末っ子でも、一歩家を飛び出すと、末っ子らしからぬ面倒見のいい子供に育っていった。

 まだ、幼稚園の頃だった。「馬になったるわ」。自宅へ遊びに来た2歳の子供を喜ばせたくて、背中に乗せて部屋の中を何度も回った。「うわっ」。夢中で遊んでいるとバランスを崩したが、とっさに年下の子供をかばった。お陰でその子は無事だったが、自分は左手を骨折。数カ月の間、不自由な生活を強いられたが、相も変わらず10人ぐらいの年下を引き連れて近所を遊び回った。

 風向きが変わったのは、瓜破(うりわり)小学校に入学してからだった。平日は学校が終わると一目散に家へ帰り、そのまま近所の友達数人で近くのグラウンドへ向かった。当時の小学生の遊びといえば、なんと言っても野球。土、日曜は6年生だった兄・雅俊が所属していた「瓜破エンゼルス」の練習を見にいった。

 「オレも野球をやったら、お兄ちゃんと遊んでもらえるわ!」

 当時、兄・雅俊はキャッチャーのポジションを任されていた。打撃も抜群。大和川沿いの河川敷グラウンドの試合では、特大の場外ホームランもかっ飛ばした。体格も良かった兄は、周囲から一目置かれる選手だった。後年、矢野が中日へ指名されると、近所の人は兄の姿を思い浮かべたほど。自慢の兄は憧れの存在でもあった。

 雅俊は瓜破中へ進んだが、後を追うようにエンゼルスへ入団した。兄と同じユニホームに袖を通せたことが、たまらなくうれしかった。小学2年の春。野球人生の始まりだった。

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