阪神新監督・矢野燿大物語

【矢野燿大物語43】練習もサボらず上級生からの信頼抜群

[ 2018年12月7日 06:00 ]

1985年、桜宮高2年夏の大阪府予選で、三野氏(左)とウオームアップする矢野(左から2人目)(三野氏提供)
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 悔いだけは残したくない。選抜出場もかかる大一番。ベンチ入りメンバーで唯一の1年生ながら、矢野に迷いはなかった。1984年11月3日、紀三井寺球場で行われた近畿大会の1回戦。2―4で迎えた9回裏二死一塁で、代打・矢野は打席へ向かった。

 「絶対に初球を振ってやる」

 報徳学園の右腕・安田が投じた初球のストレートを、背番号12の矢野は思い切り振り抜いた。叩きつけられた白球は、ピッチャーの頭上を越えていく中前打。狙い通りの好球必打で、チャンスを拡大した。

 矢野には揺るぎない信念があった。何のために厳しい練習に打ち込んでいるのか。それが、バットを振らずに凡退でもしたら、どれほど悔いが残るだろう。「振らずに終わるのだけは嫌やったから」。口々にねぎらってくれた同級生には、決まってそう答えた。

 上級生からの信頼も厚かった。何しろ、練習では一切、手を抜かない。バッテリーを組むことが多かった2年生投手の三野年紀も、1年生捕手・矢野を認めていた。

 年が明けた1985年の3月。三野は気合十分で日々の練習に精を出していた。右の本格派として将来を嘱望され、1年夏から背番号11でベンチ入り。だが、その後は伸び悩み、大阪3位で近畿大会出場を果たした昨年秋も背番号は10だった。

 「3年になったら絶対に1番を取ったる」。ある時、メンバー入りをかけた紅白戦が行われた。アップ、ブルペン、ランニング…。何をするにも三野は、矢野とコンビを組んだ。もちろん、紅白戦でもそれは同じ。レギュラー組を封じればエースナンバーに近づくだけに、三野は公式戦さながらの緊張感で臨んだ。

 試合は同点のまま9回へ進み、補欠組はピンチを迎えた。矢野はストレートを要求したが、三野は首を振る。そして、三野は自信のあったスライダーを投じたが、痛烈な一撃を食らってサヨナラ負けを喫した。試合後。矢野はすぐに三野の元へ駆け寄ってきた。

 「すいませんでした」

 「何がやねん?」

 「僕の責任で打たれました」

 「オレが首を振ったんやからオレが悪いよ」

 「いえ、サインを出した僕の責任です」

 矢野の投手を思う真しな気持ちに、三野は心を打たれた。悔しい紅白戦を経て、三野は最後の夏に待望の「1」をつかみ取る。春から夏にかけた厳しい追い込みの中、傍らには常に矢野がいた。マッサージも買って出てくれた。「いつも、すまんな」。照れくさくて言葉にはできなかったが、三野は矢野への感謝を胸に秘め3年間を終えた。

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