阪神新監督・矢野燿大物語

【矢野燿大物語33】「きっと強くなる」FA権取得も阪神残留

[ 2018年11月27日 06:00 ]

2000年10月30日、FA権を行使しての阪神残留を表明
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 矢野自身の成長とは裏腹に、チームの成績はなかなか上昇していかなかった。野村政権となった2年目の2000年。4月13日の巨人戦からは1分けを挟んで9連勝するなど2位に浮上した時期もあったが、終わってみれば借金21で3年連続となる最下位だった。

 監督・野村克也は矢野を正捕手として起用し続けたが、一方ではスポーツ新聞に「ボヤキ」まくった。野村監督の指導方針は「無視・称賛・批難」の3つからなるが、矢野の場合は徹底的に「批難」された。ヤクルト時代に古田敦也(元ヤクルト監督)を育て上げたのと同じ手法である。

 「あそこは使う球種が違ったんじゃないか」

 「あの1球の根拠を教えてほしいわ」

 連日のように、野村のボヤキが紙面をにぎわしている。メディアを通じての指導ということは矢野にも理解できたが、スポーツ紙に目を通すことはできなかった。

 「よう、見いひん。嫌な気持ちのまま球場へ行くことはできへんやん」

 自宅近くの焼き鳥屋では、東北福祉大の同級生・石田稔之にたびたび胸の内を明かした。苦しかった。あれほど捕手としての出場機会に飢えていたはずが、いつの間にかそんな気持ちもどこかへ消えていた。

 「優勝チームに名捕手あり」とはよく言われるが、今のチームに置き換えると「阪神は捕手が悪い」と言われているのも同然ではないか。自分がチームに貢献して、とにかく勝ちたい。トレードでチャンスを与えてくれた阪神に恩返しをするためにも、矢野は勝ちに飢えていた。

 秘めたる思いは、オフに突入してすぐの行動となって表れた。シーズン中に自身初めてとなるFA権を取得。当初は残留が基本線と見られていたが、捕手を補強ポイントに挙げていた巨人が調査を続けていた。

 阪神との残留交渉を進める一方で、水面下では第三者を通じて巨人からのオファーも届いた。FA宣言前ということで公にはならなかったが、条件面では阪神をはるかに上回っている。日がたつにつれ、悩みが大きくなっているのが自分でも分かった。それでも最後に阪神残留を決断できたのは、チームに対する純粋な気持ちがあったからだ。

 「こちらから、よろしくお願いします、と言いました。必要としてもらっていることをヒシヒシと感じた。今は低迷しているけれど、きっと強くなるはず。その中に自分も参加したい」

 同年10月30日、矢野は正式に宣言残留を発表した。心はもう、タテジマ一筋だった。

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