阪神新監督・矢野燿大物語

【矢野燿大物語6】試合出場なくとも腐らずチームに貢献

[ 2018年10月31日 06:00 ]

2010年4月25日の中日戦、城島(左)にかわり8回からマスクをかぶった矢野
Photo By スポニチ

 矢野が自身の公式ホームページ(HP)で、阪神残留を表明したのは2009年11月9日午後4時すぎのことだった。タイトルは『これからもよろしく!』。この日、矢野は西宮市内の球団事務所を訪れ、正式に来季も阪神でプレーする意思を伝えていた。

 『この何週間か、これまでに無いぐらい悩みました。(中略)。でも、僕のやる事は何も変わりません。自分が試合に出る為の努力、試合で結果を出す為の準備を精一杯やっていきます!それが今まで応援してきてくださったファンの方々への恩返しだと思っています』(原文まま)

 10月27日に城島が阪神入団を表明して以降、この日を迎えるまで矢野はメディアに対しても口を閉ざしていた。退団か残留かで揺れ動く心境を、公に明かすわけにはいかない。HPでは記者への非礼をわびるとともに、2010年にかける思いをファンに伝えたかった。12月3日には登録名を「矢野燿大」とすることを発表。身も心も新たに、雪辱へのスタートを切った。

 10月3日のヤクルト戦で骨折した右足首も順調に回復し、オフのトレーニングは徐々に熱を帯びた。年が明け、春季キャンプ、オープン戦と過ごす中で、最大の不安だった右肘も痛みは出なかった。「やるだけのことはできた」。3月21日にあった、広島との最後のオープン戦を終えた新幹線での車中。グリーン車で腹ごしらえのお好み焼きを食べる横顔は、充実感すら漂っていた。

 期待と不安が入り交じった開幕前、矢野は自身に大きなテーマを課していた。「たとえ試合に出られなくとも、自分にしかできない役割というものがある」。試合に出場するだけが戦力ではない。少しでもチーム、仲間にとってプラスになることを、懸命に探した。城島も順調にオープン戦を終え、当面の間、ベンチスタートが続くことは想像できた。それでも絶対に腐ってはいけない――。ベンチでは若手に負けないぐらいの大声でチームを鼓舞したし、イニングの合間にはベンチ前で投手のキャッチボール相手も買って出た。

 開幕から代打での出場が続いたが、4月25日の中日戦では8回頭から初マスクをかぶった。5月7日の広島戦は代打タイムリーを放ち、お立ち台にも上がった。矢野が試合に出場するたび、満員の甲子園は大音量の歓声と拍手に包まれた。阪神ファンも背番号39の復活を待っていた。だが、その裏で、予期せぬ悪夢が忍び寄っていた。

続きを表示

バックナンバー

もっと見る