阪神新監督・矢野燿大物語

【矢野燿大物語10】プロの“試練”正捕手・中村にサイン指示

[ 2018年11月4日 06:00 ]

1991年の秋季キャンプで中村武志(右)とともに練習する矢野(左)
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 あっという間に時間が過ぎていく。ルーキーとして猛練習に明け暮れる毎日。試合後のチャート記入、マシン相手の捕球練習と、地道な努力を続けていた。そんな中、本当の意味でプロの厳しさを知る一日が訪れた。1991年5月18日のウエスタンリーグ・ダイエー戦。2軍調整中だった正捕手・中村がスタメン、矢野はベンチスタートを言い渡された。

 試合前の平和台球場に異変が起きたのは、その後すぐだ。2軍監督・福田功が中村を呼び寄せ、冷たく言い放った。

 「今日はリードのことは一切考えなくていい」

 真意をはかりかねけげんな表情を浮かべる中村に福田はなおも続けた。

 「今日はベンチにいる矢野から全部サインを出させるから」

 伏線があった。不動のレギュラーとしてチームを支えてきた中村は、伸び悩んでいた。4月21日の阪神戦(甲子園)を最後に出場選手登録を抹消。その際、監督・星野仙一は福田に一つの指令を下していた。

 「このままでは武志が終わってしまう。何か刺激を与えてやってくれ」

 1軍のレギュラー捕手が、1軍経験の全くないルーキー捕手からサインを出され、それに従う。中村にとってこれ以上の屈辱はなかったし、冷静でいられるはずもなかった。「クソ…。オレに恥かかせやがって…」。体中から湧き出る怒りに、身を任せたかった。

 「バッターに全部サインを教えてやろうか」

 あらぬことが頭をよぎった。ベンチの知らないところで、打者に球種、コースをささやけば、当然のように痛打される。この日に限れば、それはサインを出す矢野の責任となるだろう。

 だが、中村は踏みとどまった。中村にはプライドがある。たとえ2軍戦とはいえ、試合を壊すことはできない。正真正銘のレギュラーなのだ。今日という日を、ふがいない自分への大きな試練と受け止めた。

 「とにかく早く試合が終わってほしい」

 矢野も気が気でなかった。アマチュア時代ならあり得ないことが、目の前で起こっている。その渦中に、自分が巻き込まれている。中村は鬼の形相でサインをのぞき込んでくる。5回までに4失点し、試合にも敗れた。中村以上に、矢野もまた苦しかった。

 福田にとっても、収穫はあった。「頭はシャープだし、スピードもある。絶対にチームに必要な存在になる」。矢野の捕手としての資質を早くから見抜いていた。だからこそ、矢野に嫌な役を任せた。類いまれな荒療治は、若い2人に確かな刺激を与えた。

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