阪神新監督・矢野燿大物語

【矢野燿大物語25】人生初の五厘刈りで勝負の厳しさ学ぶ

[ 2018年11月19日 06:00 ]

伊藤監督の捕手論で目が覚めた矢野(左)
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 新幹線での仙台までの帰路、矢野は長浜屋寛にこぼし続けた。

 「悔しい、何でオレが…」

 監督・伊藤義博によるショック療法は、これだけにとどまらない。帰仙後は捕手ではなく、しばらくサードの練習に専念させられた。1年生から捕手兼三塁手だったとはいえ、捕手というポジションへの思いはことのほか強い。当初は納得いかなかったが、ある時、矢野は伊藤の説く捕手論を思い出した。

 「捕手は野手の中で一人だけ反対を向いているんや。みんながおまえを見ている。だから打たれても落ち込んだりするな。おまえを見たみんなが、落ち込んでしまうんや」

 我に返った。「このままではアカン」。気持ちを入れ替えた矢野は、再びレギュラー組への帰還を遂げる。1988年(昭63)4月16日、仙台六大学野球開幕戦。2年生の矢野は東北大戦で先発マスクをかぶった。入学後初スタメン。上岡良一、朝日田賢の2投手をリードし、10―1で勝利した。

 70年(昭45)春のリーグ開設時から58連敗を記録したこともある東北福祉大は、仙台六大学で負けることが許されない常勝軍団になっていた。その精神は春、秋のリーグ戦後に開催される、下級生による新人戦でも変わらない。同じ2年生の時のこと。試合前、伊藤からはある厳罰を予告されていた。

 「おまえら、ええか。新人戦に負けたら全員で頭を丸めてこいよ!」

 矢野をはじめ、メンバーの大半はリーグ戦での出場経験がある。負けは許されないが、それ以前に負けるはずもない。みな自信はあったが、まさかの展開で試合を落としてしまった。試合後、伊藤の怒りが沸点に達しているのは、誰が見ても明らかだった。

 「とりあえず、グラウンド走っとけ」。試合会場となっていた東北福祉大球場で、延々とランニングした。それは数時間にも及んだ。日が暮れたころ、ようやく伊藤が終了の合図を出した。

 帰りのマイクロバスは球心寮を目指すはずが、そうはいかなかった。「おまえら2人はここで降りろ」。バスを降りると、目の前は散髪屋だった。寮の周辺に点在する散髪屋に2、3人ずつ降ろされていった。伊藤の指示は「全員、五厘刈り」。矢野にとっては人生初の五厘刈りだった。

 「なんで大学まで来て坊主頭やねん…」。みなが口々に、悔しさをあらわにした。これが勝負の厳しさである。悲願の全国制覇を達成するためには、東北学院大らのライバルを圧倒しなければならないのだ。何のために、仙台までやってきたのか。鏡に映る青々とした頭を見て、矢野はさらなる成長を誓った。

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