阪神新監督・矢野燿大物語

【矢野燿大物語3】自立心養われた母親の厳しくも温かい教育

[ 2018年10月28日 06:00 ]

とにかく自立心のある小学生だった(矢野家提供)
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 キャッチャーにコンバートされてからも、どこかなりきれない自分がいた。練習中、やることといえば、大半が声出しではないか。1980年、6年生になった矢野は、やや落胆していた。

 「オレはショートがやりたいねん」

 チームメートにも、ついこぼしてしまう。ノックで「カット〜」だの「ノーバンこいよっ!」などとよく通る甲高い声を出すために、野球をやっているのではない。

 キャッチャーミットも好きになれない。デカイし、重たい。スポーツ用品店に、新しく買いにいく気にもならない。「ショートがええなあ…」。思わず2年前を思い出してしまった。

 「このグローブ、めっちゃええ匂いするやん!」

 グラブの革が放つ独特の匂いが、小学4年生だった矢野の気持ちを高ぶらせた。手に取った、ミズノの軟式用内野グラブ。緑色のラベルが格好良くて、家を出るときから「これを買う」と決めていた。うれしくて、うれしくて、家に戻るとすぐに、友達とキャッチボールをした。まだまだグラブは硬かったが、構わない。「はよ試合で使いたいな」。華麗にショートゴロをさばく自分を思い浮かべながら、毎日手入れに励んだ。

 なのに…。ショートへの復帰はかなわず、キャッチャーのまま6年生最後の大会を終えた。

    ◇    ◇    ◇ 

 土、日に練習のあるエンゼルスでは、保護者が練習、試合を見学に来ることが多かった。だが、矢野家に限れば父・偉夫は多忙を極めたし、当時、母・貞子は病弱だった。

 「お父さんは仕事が忙しかったし、私は少し、体が弱かったので…。応援にはほとんど行ったことがないんです」

 貞子はどこか申し訳なさそうに振り返ったが、矢野には寂しさのかけらもなかった。「子供なりに家の事情は分かってたつもりやし、来ないのが当たり前やったから」。3きょうだいの末っ子とはいえ、幼い頃から自立心のある子供だったのだ。

 「私がいなくても自分のことは自分で何でもできるようにさせました」

 貞子はリンゴが食べたければ、自分でリンゴをむかせた。貞子は見つからぬよう、少し離れたところから見守っていたのだが…。だから、たまに貞子がリンゴをむいて差し出すと、矢野は少し驚いた様子で「ありがとう」と喜んだ。

 「目はかけても、手はかけない」。そんな貞子の教育方針が自立心を養い、最後まで一つの物事をやり遂げる強い心が育っていた。小学2年生から6年生まで1年365日、素振りをさぼったことは一度もない。本当に野球が大好きだった。

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