阪神新監督・矢野燿大物語

【矢野燿大物語26】全日本入り…夢の実現を予感した

[ 2018年11月20日 06:00 ]

1989年6月7日、全日本大学野球選手権準々決勝で近大にサヨナラ負けし引き揚げる東北福祉大ナイン
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 思わず身震いした。ここまでの努力が、ほんの少しだけ報われた気がした。1989年6月。神戸での全日本大学野球選手権を終え、仙台へ戻っていた時のことだった。矢野は監督・伊藤義博から吉報をもたらされた。

 「全日本のメンバーに入ったからな」

 「あ、ありがとうございます!」

 矢野は一瞬、我が耳を疑った。先の選手権では3番を任されながら3試合で13打数2安打1打点と、力を出し切ることはできなかった。チームも準々決勝で、近大にサヨナラ負け。前年と同じく関西の雄に苦杯を喫したのである。だからこそ、今回の選出は、矢野にとっては大変なサプライズだった。

 「オカン、全日本のメンバーに選ばれたわ!」

 休憩のため立ち寄った高速道路のサービスエリアでは、一目散に公衆電話へ駆け寄った。大阪市平野区の実家で電話を受けた母・貞子も、それはもう喜んだ。顔を合わせることができるのは、正月だけ。息子の成長ぶりを間近に感じ取ることは難しかっただけに、何よりの知らせとなった。

 メンバー入りに際して見逃せないのは、伊藤の手腕だった。矢野の同学年の大学球界は、捕手豊作と呼ばれた世代だった。法大には瀬戸輝信(元広島)がおり、駒大には関川浩一(元阪神、中日、楽天)もいた。伝統のある東京六大学、東都が幅を利かす大学球界にあって、新興勢力である東北福祉大からの選出は簡単ではない。矢野をより確実に全日本へ送り込むため、伊藤はサードも熱心に取り組ませていたのだった。

 それだけではない。矢野の同級生の一人に橘雅之という控えキャッチャーがいた。練習熱心な努力家で、1学年先輩の佐々木主浩(元横浜、マリナーズ)とバッテリーを組む機会も多かった。矢野がサードを守る場合は必然的に、橘がキャッチャーを任されていた。リーグ戦、あるいは全国大会での出番を与えられれば、橘が社会人野球へ進む場合に大きなアドバンテージとなる。伊藤は控えメンバーから優先的に就職先をあっせんする監督であったから、選手起用にもいろいろな考えを巡らせていたのだ。

 案の定、日米大学野球では6試合ともサードでスタメン出場。1学年上に交じりながら堂々と5番を務め、その名を全国に知らしめた。

 「もしかしたら、プロ野球にいけるのかもしれへん」

 アメリカのワシントン州、アイダホ州、オレゴン州、テネシー州と転戦する中、矢野は夢の実現を予感していた。

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