阪神新監督・矢野燿大物語

【矢野燿大物語15】ノーヒットノーランより…正捕手への重圧

[ 2018年11月9日 06:00 ]

1996年8月11日、巨人戦でノーヒットノーランを達成した野口を祝福する中日時代の矢野(右)
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 マウンドで広がる歓喜の輪には、少し遅れて加わった。最後の打者・岸川が遊ゴロを放ち、矢野は一塁ベースカバーへ回っていたからだ。1996年8月11日、東京ドームでの巨人戦。ノーヒットノーランを達成した野口茂樹は両手を高々と突き上げたが、好投をアシストしたはずの矢野はどこか冷静だった。

 「5点リードになったところぐらいで、ようやく…。野口には悪いけど競ってるときは“早く打たれてくれへんかな”と考えてました」

 試合後のコメントにあるように、矢野はチームを勝利に導くことしか頭になかった。6回を終了して0―0。終盤7、8回の集中打で突き放したが、それまではリードする捕手として最も嫌な試合展開といえた。

 「矢野さん、ありがとうございました」。宿舎でもらった野口からの言葉は、もちろんうれしい。現に、その夜は興奮してなかなか眠りにつくことはできなかった。だが、夜が明ければ、そんな感動もどこかへ吹っ飛んでしまう。2番手捕手だった矢野はこの頃、相手チーム以外に、自軍のベンチとも戦っていた。

 「たとえ完全試合をしたとしても1試合ではアピールにならへん。6試合して1勝5敗では、やっぱりキャッチャーとしては失格やねん」

 親しい知人には後日、偽らざる本音を漏らしていた。この年の8月。矢野は大きなチャンスをつかもうとしていた。4日の巨人戦から、スタメンマスクをかぶる試合が続いた。8日の広島戦ではルーキー・門倉健を8回2失点に導く好リード。その日は昨年のオフに結婚した裕子夫人の誕生日でもあった。そして、11日には野口が快投。優勝争いと並行して周囲の評価は高まりつつあったが、矢野の思惑は違った。

 「今日の試合がアカンかったら明日のスタメンは、ないやろな…」

 知らず知らずのうちに自分自身へプレッシャーをかけていた。試合に出なければ2番手の地位を失うことはないが、試合で力を出せなければ、その座すらも失ってしまう。外野手に挑戦するほど「試合に出たい」と思う反面、試合に出ることで生まれる恐怖も忍び寄っていた。控え捕手の悲哀…。矢野が恐れていたことは、やがて現実のものとなる。

 8月21日の広島戦を2―11で落とすと、翌22日も5―10で連敗した。この日も矢野はスタメンだったが、初回に痛恨の6失点。「1点もやりたくない気持ちが、大量点になってしまった…」。経験不足を露呈し、23日の横浜戦からは中村に先発マスクを奪われた。そんな自分があまりにも歯がゆかった。

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