阪神新監督・矢野燿大物語

【矢野燿大物語4】信頼する仲間にだけ見せた「悔し涙」

[ 2018年10月29日 06:00 ]

2009年12月、大幅ダウンの契約更改を終え、厳しい表情で記者会見する矢野
Photo By スポニチ

 努力と情熱で切り開いてきた野球人生。そのプロ19年目を終えた2009年のシーズンオフに、最大の試練が訪れた。前マリナーズ・城島の阪神入団表明から一夜明けた10月28日。会食の約束をしていた石田稔之が矢野の自宅まで迎えに行くと、車へ乗り込むなり矢野は大きな声で言った。

 「今日は聞いてもらうで!」

 笑顔ではあったが、石田なりに感じるものがあった。東北福祉大の同級生。4年生時には矢野がキャプテン、石田が副キャプテンを務めていた。18歳から20年を超える深い付き合いである。笑顔を浮かべる矢野の複雑な心中が、石田には容易に察せられた。

 同年10月下旬のある日。矢野は球団との第1回下交渉に臨み、2010年シーズンの年俸提示を受けていた。開幕前からの右ヒジ痛、シーズン終盤の右足首骨折もあり、わずか30試合の出場にとどまったプロ19年目。あまりにも不本意な成績に、矢野自身も当然のように50%以上の大幅な年俸ダウンを覚悟していた。だが球団からの提示額は、予想をはるかに超える年俸7000万円。阪神の球団史上最大となる1億4000万円のダウンだった。

 正捕手として03、05年と2度のリーグ優勝に導いた功労者である。翌年3月には球団主催の激励会で坂井オーナーが異例の謝罪を口にするなど、赤星憲広氏(本紙評論家)の電撃引退とともに、他のチームメートに与えた影響も大きかった。

 何より矢野は1998年の移籍後、チームを思い、チームの勝利だけを最優先してきた自負もあった。それはチームメート、ファンとも誰もが認めるところであっただろう。言いようのない悔しさ、怒り、悲しみ…。石田との久々の会食は、屈辱の下交渉からわずか数日後のことだった。

 気の置けない同級生らしく、冗談も交えながら途切れることなく会話が続いた。20分以上が経過し、車は大阪市内の阪神高速を走っていた。ふとした拍子に、会話が止まった。不意に訪れた沈黙…。数分後、隣に座っていた矢野が、振り絞るようにつぶやいた。

 「悔しい…」

 それだけ言うと、後は言葉にならなかった。それは石田にとって、初めて見る矢野の涙だった。ボロボロに切り裂かれた矢野の心が、石田には痛いほど分かった。石田も泣いた。心地よかった車内が、いつしか嗚咽(おえつ)だけの空間に変わっていた。信頼する仲間にだけ見せられる涙だった。

 「タイガースを出るかもしれんわ…」

 移籍か残留か。激しく揺れ動く胸中を、石田に明かした。

※カッコ内の肩書は2010年当時のまま

続きを表示

バックナンバー

もっと見る