阪神新監督・矢野燿大物語

【矢野燿大物語36】恩師・伊藤監督の死…墓前に誓った日本一

[ 2018年11月30日 06:00 ]

2002年8月1日、恩師・伊藤監督が亡くなった日、矢野は喪章をつけ甲子園での横浜戦に臨んだ
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 2002年になると、東北福祉大野球部監督・伊藤義博の病状は徐々に悪化していった。ベッドの上で過ごす時間が長くなった。

 「絶対にもう一度治って野球をするんや」

 妻・明美はたびたび同じ言葉を聞いた。伊藤にはもう一つ夢があった。1984年秋に福祉大の監督に就任。東北の地で野球に打ち込んだ教え子たちは、全国各地の指導者となっていた。

 「あいつらがどんなふうに野球を教えているか、監督を引退したらこの目で見て回りたいんや」

 社会人、大学、高校…。日本のアマチュア球界では伊藤のDNAが脈々と受け継がれている。伊藤は学生を大切にする男だった。家族と過ごす時間をなくしてまで、学生と向き合った。

 見舞い客が病室を訪れる際は、痛み止めの薬を多めに投与してもらった。弱みを見せたくなかったし、それは学生のためでもあった。企業の就職担当者との会話を、おろそかにはできない。最後の最後まで、監督としての職務を全うしようとした。

 亡くなる3日ほど前だった。ベッドに横たわったままの伊藤は、明美を抱き寄せた。もう、言葉は話せなかった。そのままの姿で数秒間、明美を抱きしめた。その後、伊藤は意識を失った。

 聖望学園高野球部監督・岡本幹成は、上岡良一とともに宮城県白石市内の病院で看病していた。もう時間はない。岡本は上岡に言った。

 「最後は家族だけにしてあげようや」

 伊藤は明美、そして3人の子供たちにみとられ、天国へ旅立った。享年56。02年8月1日のことだった。

 8月3日の通夜には野球部OBをはじめ約600人が別れを惜しんだ。翌4日の葬儀・告別式を終えると、伊藤の亡きがらを乗せた車は東北福祉大球場へと向かった。グラウンド内をグルリと囲み、OBというOBが号泣していた。一人、一人に別れを告げるように、車はグラウンドを一周。「みんな、ここまで思ってくれていたんだ」。明美は信念を貫いた夫の生きざまにあらためて誇りを持った。

 ◇  ◇  ◇ 

 右肩に喪章をつけて臨んだ1日の横浜戦(甲子園)は、3打数無安打に終わった。「お立ち台で感謝の気持ちを伝えたかった…」。帰宅途中の車では、あふれる涙を何度もぬぐった。伊藤がいたから、今の自分がある。レギュラーとなった今、残された恩返しは優勝を報告するだけだった。

 03年1月。矢野は仙台市内の「弥勒寺」を参った。墓前で合掌し静かに誓った。「監督、見ててください」。悲しみを胸に、まだ見ぬ頂を目指した。

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