阪神新監督・矢野燿大物語

【矢野燿大物語28】支え合ったエースと成し遂げた早大完封

[ 2018年11月22日 06:00 ]

1990年6月10日、大学野球選手権で早大に勝利し沸く矢野(手前中央)ら東北福祉大ナイン
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 勝利の瞬間、エース・小坂勝仁(元ヤクルト、近鉄)は、神宮の空に両手を高々と突き上げた。1990年の全日本大学野球選手権準々決勝で、早大を完封。東北福祉大にとって、全国大会で東京六大学を破るのは初の快挙である。マウンドに駆け寄ってきた矢野と、小坂はガッチリと握手を交わした。

 「逃げずに内角を攻められた。気持ちを前に前に一生懸命出しました」

 小坂は会心のピッチングに胸を張った。早大との試合前夜。四谷の宿舎で開かれたミーティングでは、一人一人が思いの丈を語っていた。

 「東京のチームには絶対に負けられへん」

 それは監督・伊藤義博の口癖でもあったが、小坂にとってはもう一つの思いがあった。父・勝宥(かつひろ)は立大で5勝したが、早大には1勝もできなかった。「オレの分まで頼むぞ」。父の電話での励ましに、余計に気持ちも入った。

 矢野との試合前の打ち合わせは、いつも通りだった。「インコース、フォーク、スライダーをどんどん投げたい」。矢野は投手の持ち味を引き出すことに腐心するキャッチャーだった。これまでも対話を重ねてきたから、特別なことはない。後は矢野のミットめがけて、投げ込むだけでよかった。結果は散発の2安打。バッテリーの力で1―0の投手戦を制した。

 「このままでは終わられへん。悔いのない1年にせなアカン」

 最終学年を迎えて、小坂は気持ちを入れ替え、野球と向き合っていた。高2夏の大阪大会準優勝など、東海大仰星高では早くから名の知れた本格右腕だった。それが、あばら骨を2回も折るアクシデントがあり、最後の夏は3回戦でコールド負け。好調時の上から投げ下ろすフォームを追い求めすぎたため、大学進学後の3年間も鳴かず飛ばずに終わっていた。

 そんな小坂にとって一つの転機となったのが、矢野のキャプテン就任だった。同じ大阪府出身で、高校時代から互いを知る。「小坂、あの時は凄かったよ」。たとえ結果を残せずとも、矢野は小坂へのリスペクトを忘れたことはなかった。

 最上級生になった小坂は、矢野の存在をいい意味でのプレッシャーに変えていた。「矢野がキャッチャーをやってくれるし、下手なピッチングはできひん」。あれほどこだわっていたフォームも捨て、スリークオーター気味に腕を下げた。それらの地道な努力が神宮での快投につながった。

 準決勝は矢野が2安打3打点の活躍で、国際武道大を9―0と圧倒した。2年ぶり3度目となる決勝進出。悲願の初Vに王手をかけた。

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