阪神新監督・矢野燿大物語

【矢野燿大物語14】公私ともに慕っていた先輩がトレードに

[ 2018年11月8日 06:00 ]

背番号「38」となった矢野(左)。出場機会を求め外野守備も始めた
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 何をするのも一緒だった。腹の底には、同じ思いがくすぶっていた。顔をあわせば「試合に出たい」と呪文のように繰り返した。だから、矢野はショックだった。「信じられへん」。1995年オフ。公私ともに慕っていた中日・清水雅治が、西武へトレードされてしまった。

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 矢野が2年目のオフに昇竜館を退寮するのと同じタイミングで、清水も引っ越し先を探していた。やがて2人は同じマンションと契約。家族持ちの清水が1階、独身の矢野が2階という部屋割りで落ち着いた。

 そんな背景もあったのか、キャンプはもちろん、シーズンの遠征中も2人は相部屋だった。清水の方が4歳上だったが、矢野を諭すようなことはない。とにかく2人とも負けず嫌い。ご近所さんは、練習の良きパートナーでもあった。

 午前10時前には、天白区にあったマンションを出発。矢野の運転で西区の室内練習場からナゴヤ球場へ向かい、帰宅後は清水宅で遅い食事を取った。「もう野球の話はいいだろう」。お互いそんなふうに思っていても、気がつけばやっぱり野球の話になってしまう。日付が変わることもしばしばで、2人にとって野球が全てだった。

 清水は、矢野にとってのアニキ分的存在だった。何より、野球への真摯(しんし)な姿勢は、生きた教材といえた。試合では常に全力疾走。たとえピッチャーゴロを打っても、一塁ベースを全力で駆け抜けた。「清水さんは、やっぱり凄いな」。アマチュア野球ならまだしも、プロの選手が簡単にできることではない。それを当たり前のようにやってのける清水を、矢野は尊敬していた。

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 同年オフは他にも、矢野にいくつもの発奮材料を与えた。5年間、着用した背番号「2」を、高卒ルーキー・荒木雅博に奪われた。94年が35試合、この年も57試合の出場に終わっていた。かつて即戦力の期待を背負った男が背番号「38」への降格。言いようのない悔しさがこみ上げてきた。

 12月18日には裕子夫人と名古屋市内のホテルで結婚式を挙げた。交際わずか半年というスピード婚。まさに、運命の出会いといえた。「一生かけて守っていく」。妻への思いは、揺るぎない決意となって矢野を支えた。

 明けて、96年。6年目を迎えた矢野は、自ら志願して外野手と二足のわらじを履くことにした。「試合に出ないと、何も始まらへん」。捕手の練習を終えると休む間もなく、外野特守に励んだ。27歳の春。どん欲に出場機会を追い求めた。

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