阪神新監督・矢野燿大物語

【矢野燿大物語2】「捕手・矢野」の誕生は偶然にすぎなかった

[ 2018年10月27日 06:00 ]

瓜破エンゼルス時代、偶然「捕手・矢野」が誕生した(前列右から2番目)(矢野家提供)
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 瓜破エンゼルスに入団してからは、厳しい練習の日々が待っていた。大和川沿いの堤防をランニングするのはきつかったが、野球がただ、ただ楽しかった。矢野が小学3年生となった1977年夏。母・貞子は所用のため瓜破小を訪れていた。

 ふと教室の前を通りかかると、七夕の笹が飾られていた。「アキのはどこやろ?」。じっくりと眺めてみる。ようやく探し出したお目当ての短冊には、幼い文字である夢が書かれていた。

 「ぼくはプロ野球せんしゅになる」

 一日の出来事をたくさんおしゃべりする子だったが、そんなことは一度も聞いたことがない。貞子は大いに驚いたが、やがて幼い夢が思いつきでないことを知る。

 矢野は大阪市平野区の自宅から自転車で大和川を越え、松原市内のグラウンドまで通っていた。上級生のお兄ちゃんたちは20分もあれば到着していたが、当時はまだ8歳。グラウンドへたどり着くのも一苦労だった。そして夏休み。生まれつき食は細かったが、炎天下の練習に食事がのどを通らなくなってしまった。

 「あれではアキが倒れてまう!野球は辞めさせなアカン」。見かねた叔父の言葉はもっともで、貞子も心を鬼にした。

 「食べられないなら、もう野球に行かんでいい!」。だが、輝弘も折れない。「ご飯食べるから野球行かせてください」。あまりの真剣な目つきに、母は困った。

 「じゃあ…、おにぎり食べて帰ってこられるなら続けていいよ」。熱意は通じた。翌朝、輝弘は梅干し入りのおにぎりを2個携え喜々としてグラウンドへ向かった。だが、数時間後…。おにぎりをそのまま持って帰ってきてしまった。

 「もう野球に行かなくていい!」。貞子の口調はより厳しくなったが、輝弘はここでも負けなかった。「嫌だ。野球行かせてください!」。押し問答の末、最後は輝弘が押し切る。そんな親子のせめぎ合いは夏休み中続いたが、梅干し入りのおにぎりは手つかずのまま…。練習も休まず体はきつくて仕方なかったが、唯一、口にできた牛乳が、野球との赤い糸をつないでくれた。

 時は流れ、6年生となった1980年。エンゼルスのエースがヒジを壊してしまう。キャッチャーが代役に指名されたのだが、意外にも球が速く、残りの控え捕手は誰も捕れない。そこで監督から目を付けられたのが、ショートを守っていた矢野だった。

 「キャッチャーは矢野!」。ショックだった。捕手はボールもよく当たるし、人気のないポジションだ。「なんで、オレやねん…」。予期せぬ展開から、捕手・矢野輝弘は誕生した。

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