落合博満氏 東芝府中に残る「落合伝説」の真偽を語る

[ 2022年9月28日 17:05 ]

落合博満氏
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 現役時代に3冠王を3度獲得し、監督としては中日を4度のリーグ優勝に導いた落合博満氏(68)が28日、自身のYouTube「落合博満のオレ流チャンネル」を更新。社会人・東芝府中時代の思い出などを語った。

 東洋大学をすぐに中退し、故郷の秋田に戻って、兄がボウリング場の支配人をやっていたことからボウリングにのめりこんだ。20歳を機に秋田工時代の恩師に相談し、1974年1月に東芝府中に入社した。1978年のドラフトでロッテから3位指名され、入団するまで、社会人を4年以上経験した。

 東洋大中退後は一時はプロボウラーを目指すほどボウリングを本格的にやった時期もあったが、東芝府中で再び野球をやることになった。その一つに練習場の外野後方の防球ネットがどんどん高くなっていったという。その真偽について「練習場では防球ネットを上げたっていうのは確か。(打球が飛びすぎたのか)ええ。いやそれでも、上げれば上げるだけ、じゃあ、より遠くに飛ばそうっていうものが出てくる。(ネットを高くしても)やっぱり出てって、構造上これ以上高く上げられないっていうところまでは上げたと思う」と振り返った。一番高くしたネットすらも越えていたそうで「そこを(自分以外に)越えたっていうのは、亜細亜大学から日本ハム入った古屋(英夫)、あれが1本くらい越した程度かな」と語った。

 グラウンドについては「(両翼は)90(メートル)くらいはあるとは思うよ。左右のサイズはあったけど、センターはちょっと狭かったけどね。それでも府中工場の(外野後方の)独身寮の3棟くらいまでの屋根にはぶちこんだことはあるけどね」と涼しい顔で説明。「ライト側(右翼側後方)の家で、オレが会社辞める時に、“家直すんだけどもこれだけはとっておく”っていう家があったよ。“ボール当たった記念に”って言ってね」とエピソードも披露していた。

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2022年9月28日のニュース