富岡西「ノーサイン野球」で考えた「高校野球」と「監督」(中)

[ 2019年3月18日 10:30 ]

富岡西ナイン
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 【内田雅也の広角追球】富岡西(徳島)の地元・阿南市で16日、あるOB戦が開かれた。2012年8月に練習試合で対戦した高川学園(山口)との「再現試合」だという。富岡西の甲子園初出場を祝おうと、当時の選手たちが集まり、再会を喜び合った。

 この7年前の夏の一戦こそ、富岡西の監督・小川浩(58)が現在の「ノーサイン野球」を採用する原点だった。

 「衝撃的でした」と小川は言う。「試合前、相手は何でもないチームで同程度の力量だな、とみていたのですが、いざ試合が始まると、かき回されて、走攻守で圧倒されての完敗でした」

 不思議だったのは相手ベンチで監督が全くサインを出していないことだった。

 当時の高川学園監督の中野泰造(64)は広陵(広島)から天理大に進み、指導者を目指した。保健体育教諭として北大和(現奈良北)、桜井商など奈良県の県立校で13年間指導。桜井商時代の途中からサインは出していなかった。

 1991年、野球部が新設された東亜大(山口)の初代監督に就任し、94年秋、明治神宮大会に初出場、全国優勝の快挙を成し遂げた。その後2003、04年と同大会で3度の優勝に導いている。09年から高川学園監督に就いていた。

 小川は山口県の同校を訪ね、練習を見学し、中野の話に耳を傾けた。それまでは普通に出していたサインを出さない方針に変えた。選手が自ら考えて動くようにした。

 「それまで一つの壁のようなものを感じていました」。小川は富岡西のOB、左腕投手として3年夏に県4強まで勝ち進んだ。国学院大卒業後の83年、国語科教諭として母校・富岡西で3年間監督を務めた。県内で監督を歴任、10年に母校監督に復帰していた。

 「これだ!と思った」とノーサインの採用を決めた。「監督から出すサインというのは、どうしてもワンテンポ遅れてしまうことが多いと感じていた。実際にプレーする選手の方が感覚的に分かっていることがある。相手投手はもうほとんどノックアウトできるのに、ベンチから要らぬサインを出してチャンスを逃してしまったりしていた。選手の感覚、自主性に任せた方がいいんじゃないかと思うようになった」

 最初は戸惑うことも多かった選手たちだが、試合後や練習中に意思疎通を深めていった。選手たちが行う、セオリーからは外れた予想外で独創的な作戦も「結構当たるんです」。プレーする選手たち自身の感覚からすれば「できる」と感じての作戦結構なのだろう。

 それに「地元の選手ばかりの公立校が広く選手を集める強豪私学に勝つためには、同じことをしていてもダメ」と、ノーサイン野球に可能性をみていた。文武両道の進学校。創部120年目の伝統校に見合った野球とも言えるだろう。

 「ただ、指示を待ち、言われるままプレーしているようでは、社会に出ても通用しません」

 野球部出身者には「指示待ち族」が多い、と友人に指摘された言葉も耳に残っていた。

 小川が話すミーティングについて、主将の坂本賢哉(3年)は「興味深く、ためになる話が多い」という。「野球そのもののと言うよりも、日ごろの生活はすべて野球に通じている、といった話をされます」。小川が愛用している手帳の一部を見せてもらったことがある。選手たちの日々の状態などに加え、人生訓のような言葉が並んでいた。ノーサインは人間的成長にも通じている。

 「ウチでは、いくら技術が高くても、考える野球ができない選手はレギュラーになれません。ノーサインでやるためには試合展開、状況、相手投手の状態や守備体形……などを把握し、先を読んで、次に何をすべきかを考えておかねばなりません。それため、日ごろの練習から意識を高めていくことです」

 練習メニューも前日に坂本らが中心となり、選手たちが話し合って決め、当日の昼休みに小川のもとに持って行く。平日2時間の短い練習に工夫を凝らしている。

 やはり、甲子園の心は日々練習するグラウンドにこそあるのだろう。そんな富岡西がついに甲子園に招かれ、晴れ舞台に立とうとしている。        =つづく・敬称略=

     (編集委員)


 ◆内田 雅也(うちた・まさや) 1963(昭和38)年2月、和歌山市生まれ。桐蔭高(旧制和歌山中)野球部時代は「甲子園」を強く思う一方で、連日深夜まで「やらされる練習」に慣れ、「指示待ち族」になっていたかもしれない。慶大文学部卒。和中・桐蔭野球部OB会関西支部長。

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