内川 遅咲きのヒットマン 広角打法とメンタル面の成長で2000安打達成

[ 2018年5月10日 05:30 ]

パ・リーグ   ソフトバンク3―0西武 ( 2018年5月9日    メットライフD )

<西・ソ>8回、内川は2000安打を達成し、ボードを掲げる
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 ソフトバンクの内川聖一外野手(35)が9日の西武戦で8回に中前打を放ち、史上51人目の通算2000安打を達成。王手をかけてから、15打席目で到達した。レギュラー定着は8年目の08年。同年に右打者最高打率(・378)をマークし、ソフトバンク移籍後には史上2人目の両リーグでの首位打者を獲得した。遅咲きのヒットマンが、18年目で金字塔を打ち立てた。

 節目の一打は、自身の打撃を支えた逆方向に飛んだ。8回1死一塁。内川が武隈の外角球を中堅右へ。ガッツポーズは自然に出た。西武・松井、ソフトバンク・王貞治球団会長から花束を贈られた。涙は出なかった。安どした感情は、最高の笑みに表れた。

 内川 やっと、やっと打てた。正直きつかった。敵味方関係ない声援は野球選手冥利(みょうり)に尽きる。僕にとって歴史に残る日になった。

 王手をかけてから14打席無安打。「人から意識させられて身動きが取れない感覚。どうしたらいいんだと」。生涯打率は3割を超えるが、残り2本のヒットは27打席も要した。

 偉業にたどり着いた原動力は反骨心だった。父・一寛(いっかん)さん(61)が監督を務める大分工に進学し、父子鷹で臨んだ高3夏は大分大会決勝で中津工に負けた。通算43本塁打でスカウトに注目されたが、進路は大学と決めていた。ドラフト直前に考えが変わった。理由は「甲子園に行けなかったから」。聖地を踏んだ同年代の選手に負けたくなかった。

 横浜(現DeNA)にドラフト1位で入団し、高卒1年目で1軍出場、2年目にはプロ初本塁打。だが神経障害での視力低下、左膝手術など故障が続き、ムラのある精神面もレギュラー定着を遅らせた。「ゴルフしてても、思うようなショットが打てないとクラブを放り投げていた」。今では個人契約を結ぶ臨床心理士の武野顕吾氏と出会ったのはこの頃。弱さに向き合い、失敗に左右されないメンタルの大事さを知った。

 気がつけば7年が過ぎていた。07年オフ、大分に帰省した際に両親に言った。「今年レギュラーになれなかったら野球やめるわ」。迎えた08年、打撃スタイルを変えた。ボールを引きつけて打つ広角打法で開眼。右打者歴代1位の打率・378で首位打者になった。

 メンタル面の成長はFAで移籍したソフトバンクでの勝利打点数に表れる。横浜時代の決勝打は36回。25試合に1度だったが移籍後は既に86回。10試合に1度と倍以上のペースとなった。「僕には、一目見て“凄え”というのがない。誰にも負けないものがないからここまでしつこくできたと思う」。技術と精神力を磨き、ここぞの場面でヒットを打てる選手になった。

 筋力トレーニングはしない。験担ぎもしない。若い頃は焼き肉を食べた翌日に安打が出れば連夜、肉を詰め込んでいた。女子ソフトボールの上野由岐子の「国際大会ではルーティンができない。できなくて不安になるくらいならつくらない方がいい」という言葉を聞き、きっぱりやめた。

 変化を恐れず、自分にプラスになりそうなことは試してきた。「野球で100点満点ってないんじゃないかな。去年と同じではマイナスと思っている」。右打者で7年連続3割を記録したのは落合博満と2人だけ。甲子園に行けなかった反骨心が、野球がうまくなりたい向上心が、18年目、1800試合目の2000安打につながった。 (川島 毅洋)

 ▼ソフトバンク・王貞治球団会長 難産だったから喜びもひとしお。これで平常心でできる。“とにかくお疲れさま”と声を掛けた。大変なプレッシャーだったと思う。すんなり出るより、こういう方が感激は大きいね。

 《史上4番目》内川(ソ)が15打席ぶりの安打で通算2000安打を達成。14打席のブランクは金本知憲(神=18打席)、江藤慎一(太平洋=17打席)、柴田勲(巨=17打席)に次いで4番目に長かった。また、メットライフドームでの達成は西武球場時代の83年山崎裕之(西)以来35年ぶり2人目となった。

 ◆内川 聖一(うちかわ・せいいち)1982年(昭57)8月4日生まれ、大分県出身の35歳。大分工では3年夏に大分大会準V、甲子園出場なし。00年ドラフト1位で横浜(現DeNA)に入団。11年にソフトバンクへFA移籍し同年パ・リーグMVPに輝いた。首位打者、最多安打各2度、最高出塁率1度、ベストナイン5度。09、13、17年WBC日本代表。1メートル85、93キロ。右投げ右打ち。

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