【内川父手記】闘病、イップス…耐えながらたどりついたことを褒めてあげたい

[ 2018年5月10日 08:36 ]

パ・リーグ   ソフトバンク3―0西武 ( 2018年5月9日    メットライフD )

<西・ソ>スタンドから拍手を送る(左から)父・一寛さん、弟・洋平さん、母・和美さん
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 ソフトバンク・内川の父・一寛さん(61)が息子の偉業を祝福した。大分工では監督と選手の関係で甲子園を目指した父子鷹。高校時代の思い出や、プロ入り後の苦悩を間近で見てきた父が、スポニチ本紙に手記を寄せた。

 2000安打打ったから凄いではなくて、ここまでプロの世界でやれたことが良かった。なかなか、この年数を現役でやる選手は少ない。耐えながら、ここにたどり着いたのは、数字よりも褒めてあげたい。

 高校で「習いたい」と言いだしたのは、聖一からだった。私の転勤先になりそうな大分工を受験して、私の異動待ちだった。「俺が行かなかったらどうする?」と聞いたら「1年間、浪人する」と。そこまで言ってくれてうれしかった。監督冥利(みょうり)に尽きると思った。

 高校1年の8月31日。今でもはっきり覚えている。夜に左のかかとが痛いと言い始めた。2学期の始業式の日に病院に連れていったら「骨が溶ける病気」(骨のう腫)と言われて驚いた。野球どころではなく入院し、手術を受けた。一度退院したが、切った痕から膿(うみ)が出てきて、再び緊急入院。全部取って、1週間、寝たきりになった。かわいそうだった。少しでも細菌があると再発する。別の場所から骨を削り、埋め込んだ。足が細くなるのが分かる。家内は泣いていた。野球は厳しいかなと思っていた。そんなとき「新しいグラブを作って」と聖一が言ってきた。

 試合に出始めたのは、2年の6月の練習試合だった。全力疾走もできない状態だった。本格的に動きだしたのは2年の秋から。朝早く次男と一緒に出ていって本当に野球が好きなんだと思った。手はいつも切れていた。ティー打撃は握力と感覚をつけるために素手でやらせていた。それは今も変わっていない。

 横浜時代にはイップスになった。試合を見に行ったら2失策した。試合後に食事に行ったら、聖一が泣きだした。家内は「辞めて大分に帰ってきて仕事したらいいよ」と言ったこともあった。失敗したら、原点に戻る。調子が悪い時期は、日曜日のデーゲームが終わった後、最終で大分に帰ってきて、夜中、庭でスイングしたり、高校時代のビデオを見ていた。次の日も高校時代のビデオを見て、振って感覚を思い出して、横浜に戻る。それを繰り返していた。

 ソフトバンクで一番、苦労したのは4番になった年。相当、悩んでいた。打率3割を切って僕も心配したが、次の年に3割打った。打撃はまた、進化している。バットの感覚や乗せる感覚、そういうものをまだ、追求しているのかと思う。毎年、オフになると少しずつバットのバランスを変えたりする。もっといい感覚があるんじゃないかと追求しているんだと思う。

 私は一時、高校野球の監督をするのはやめようと思ったことがあった。野球部のない特別支援学校に行っているとき、聖一がWBCに出て、火が付いた。野球界から逃げたらダメだと。聖一のおかげだった。今でも「内川選手のお父さん」と言われると悔しいし、いい刺激をくれる。

 2000本を境に野球界に恩返しするポジションへ移行していく年齢。故障もあり、精神的なものもあり、いろんなことを経験した。いつ病気するか、入院するか。頼むから、無理しないでと思う。

 ◆内川 一寛(うちかわ・いっかん)1956年(昭31)12月28日生まれ、大分県出身の61歳。鶴崎工から法大に進学し内野手としてプレー。国東、大分工で監督を歴任し、93年夏に甲子園出場。09年からは情報科学で監督を務め、現在は副部長。

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