阪神新監督・矢野燿大物語
【矢野燿大物語48】人々の記憶に永遠に刻み込まれた「最強バッテリー」
まさかの被弾…それでも 球児の涙で救われた幻の引退試合
マウンドから矢野の表情を見るのは、初めてだった。無人のスタンドも気にはならない。18・44メートルの空間を2人で共有するのは、これが正真正銘、最後となる。
「オレは今まで矢野さんのミットしか見たことがなかったんやな…」
藤川球児は一時代の終焉(えん)を惜しむかのように、しばしの感慨にふけっていた。あらためて気づかされた、捕手・矢野燿大への思い…。2010年12月17日、午後10時30分。藤川―矢野の最強バッテリーは、関西テレビの収録で大阪府堺市にある堺浜野球場にいた。
「ミットしか見なくてええほど、オレは矢野さんを信頼してたんや」
球児が台頭した2005年からコンビを組み、チームに貢献してきた。今後、伝説として語り継がれるであろうストレートを、何の迷いもなく矢野のミットめがけて投げ込んできた。それが当たり前のようにできたのも、矢野へ寄せる絶大な信頼があったからだろう。球史に名を残す右腕は、矢野という名捕手に支えられてきたのである。
「矢野さんがおらんかったら、とおの昔に僕はいなくなっていた。感謝しかない」
揺るぎない思いを、球児も一つの形として残しておきたかった。気温10度にも満たぬ肌寒さは、オフ期間中にプロの投手がピッチングする環境ではない。はき出す息が白い。それでも球児は矢野への最後の1球にこだわりたかった。「もう1球、お願いします」。同じセリフを2度も繰り返し、球児は3球目をリリースした。
◇ ◇ ◇
甲子園球場は、声を失っていた。シーズン最多4万7027の観衆は虚脱感に襲われている。目の前にある異様な光景を、阪神ナインも呆然と見つめるしかなかった。同年9月30日の横浜戦。引退試合となるはずの一戦で、矢野はファンの前でプレーを見せることなく、20年間のプロ野球人生を終えた。9回、絶対的守護神・藤川が逆転3ランを浴びるという不測の事態。それはあまりに非情な幕切れだったが、矢野は最後まで捕手としての生きざまを貫いた。
「今までどれだけ球児に助けてもらい、ええ思いをさせてもらったか。球児を責めることなんてできないし、そんな思いは一つもないよ」
試合後、取材に応じた矢野は球児をねぎらっていた。それどころか、球児に対して申し訳ない思いがあった。矢野のテーマ曲で入場するなど、少なくとも球児のルーティンではなかった。それが、普段と違う投球の要因となったのかもしれない。「悪いことをしてしまったな…」。帰宅後、矢野が思いを巡らせていると、西宮市内の自宅を球児が訪ねてきた。
「矢野さん、今日は本当にすみませんでした」
責任を一心に負い、球児が頭を下げている。本当はすぐにでも、試合のことは忘れたいはずなのに…。球児は涙ながらに思いの丈を語り始めた。
「うまく送り出せることができなくて、すみません。僕にとって、いやタイガースの選手にとって、シーズンの勝敗と同じぐらい今日は大事な試合でした…。思い切り、矢野さんの引退試合を意識してました。それがアカンという人もいるかもしれんけど、僕は全く後悔してません。矢野さんが残してきてくれたものは、そんなもんじゃない。ふがいないです…」
これほどまでに球児が自分のことを思ってくれていることを、矢野は初めて知った。それはキャッチャー冥利に尽きる言葉だった。もしも、何事もなく送り出されていれば、この瞬間が訪れることはなかったのである。「こういう最後もオレらしいのかな」。球児の涙が、試合後に抱いていた無念を、少しずつ洗い流してくれるようだった。
◇ ◇ ◇
「ナイスボール!」
球児が投じた3球目をミットに収めると同時に、矢野は大きな声を上げていた。無観客の堺浜野球場に、矢野の声が響き渡った。2人の距離は徐々に縮まり、最後のハイタッチをかわした。
「球児、ありがとな」
「ありがとうございました」
互いに感謝の気持ちを伝え合い、ゆっくりとマウンドを後にした。甲子園球場でなくてもいい。たった一度しかない特別な舞台が、逆に2人の特別な絆を物語っていた。選手として、いや、捕手・矢野燿大として思い残すことはもう何もない。
「どんなボールでも良かったはずやけど、3球も投げてくれてうれしかった。ユニホームは着てないし、状況も違うけど、野球人生のいい思い出になった」
あの日、ファンの誰もが、最後となる2人の勇姿を待ち望んだ。だが、それも矢野の野球人生である。衝撃の結末ゆえ、誰もが絶対に忘れられないものとなった。横浜戦での刹那の悲劇は、永遠の記憶となり人々の脳裏に刻み込まれた。
数々の挫折を乗り越えてつかんだ栄光だった。野球人・矢野燿大の生きざまは今後も変わらない。新しい挑戦の日々が、いよいよ始まる。=終わり=
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