【あの甲子園球児は今(13)佐賀商・峯謙介】「甲子園優勝投手」の重圧から風向きが変わった軟式野球

[ 2022年8月17日 07:45 ]

ポニーリーグ・佐賀ビクトリーで総合コーチを務める峯謙介さん(右端)
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 1994年夏の甲子園大会で、ひときわ輝いたのが、佐賀商・峯謙介投手だった。2年生ながら1回戦から決勝までの全6試合55イニングを完投。708球を投げ抜き、深紅の大優勝旗を佐賀県に初めてもたらした。峯を最後に夏の甲子園で全試合を完投した優勝投手はいない。

 「自分のためにというより、3年生のためにという気持ちが強かった。チームのために、その思いだけ。試合に出られなかった3年生の方々が、僕ら下級生をサポートしてくれた。扇風機をあててくれたり、ぬれタオルをくれたり。率先してやってくださる姿を見ていたら、自然とそういう気持ちになりますよね」

 サポートに回ることをいとわなかった3年生の存在が、チームを一つにまとめていった。佐賀大会は背番号11。2番手投手として夏を迎えたが、背番号1の渡島寛記が本来の力を発揮できず。次第に登板機会が増え、信頼を勝ち取った。小学6年から憧れて進学した佐賀商で、初めて背番号1を手にしたのが甲子園。モチベーションも好投を後押しし、あれよあれよという間の全国制覇だった。

 「今考えれば、優勝してからは本来の自分ではなかったですね。周りから見られるにつれて、自分を持つことができなくなっていきました」

 無欲で勝ち取った栄光の後の“重圧”はとてつもなく大きかった。峯をはじめ不動のスタメンだった1、2年生が5人。戦力充実の新チームは、翌年も甲子園での活躍を期待された。周囲からの評価は“峯がいるなら勝って当たり前”。自分自身では納得のいく投球で試合に勝っても、新聞などには「ホロ苦、2失点」と厳しい見出しが並んだ。秋の九州大会では初戦で藤蔭に逆転負け。翌春の選抜出場の道を断たれた。

 元来、結果を追い求めるタイプではなかったが、次第に「自分らしさ」を見失っていった。他者がつくりあげた「峯謙介」に、少しでも近づこうとした。プロ入りを目指し、当時の指標とされた140キロには到達したが、その分だけ、投球時の力みにつながった。「こんなはずではない」との思いで迎えた3年夏の佐賀大会は決勝まで進んだが、2点優勢の8回に3点を失い龍谷に2―3で逆転負け。目標に掲げていた「全員で優勝旗を返しにいく」ことはかなわず、エースである自分を責めた。

 社会人野球のJR九州に進んでも「甲子園優勝投手」の看板はついて回った。思うような結果を残せず、3年目を終える頃には構想外に。「もう1年やらせてください」とお願いして残留した4年目は好投を続けたが、一方で、心は限界だった。

 「今になって振り返ると、気持ちがめいっていたのかもしれませんね。今なら絶対に辞めない。優勝投手というのが重荷になって、野球に対してポジティブになれなかった」

 風向きが変わったのは、軟式野球をプレーしてからだった。JR九州を退社後、家業のスポーツ用品店を手伝っていると、ひらまつ病院の平松克輝理事長から声をかけられた。軟式野球の面白さを知るにつれ、いつしか「くすぶっていたものが、すっと消えた」。入部から2年後、クラブチームから企業チームになったのを機に、同院に入社。あれほど苦しめられた「日本一」のステージを再び目指すことを決めた。野手として打撃を極めようと、あれこれ考えを巡らせる日々。天皇杯にも出場し、国体では3位にもなった。37歳で現役を引退した。

 「楽しく野球をさせてもらえた。ご縁に感謝です」

 長男・大翔が所属した「思斉館少年」では監督を務めた。注力したのは技術面よりも「自立できる人間になる」こと。道具の整理整頓やあいさつ、礼儀の大切さを口酸っぱく言い続けた。そんな指導スタイルが、中学硬式野球ポニーリーグの強豪・佐賀ビクトリーを率いる古澤豊監督の目にとまり、総合コーチに就任。再び大翔とともに白球を追った。

 その大翔は今春から横浜に進学。1年生ながら名門の背番号14をつけ夏の甲子園出場を果たした。

 「覚悟を決めて親元を離れた。誰もが行ける高校ではない。素晴らしいチームに入学させてもらった。指導者の方々、先輩方も素晴らしい。みんな本気で野球と向き合い、1年生がプレーしやすい環境をつくってくれる。自分が決めた道。悔いのないように3年間を過ごしてほしい」

 JR九州での最終年、野球に踏ん切りをつけた瞬間があった。1999年5月16日の西武―オリックス戦。西武の新人・松坂大輔が初対戦のイチローから3三振を奪い、試合後のお立ち台で「自信が確信に変わりました」と語った、あの有名なシーンだ。

 「その言葉を聞いて“あっ、こういう選手がプロに行くんだ。自分は行けるわけがないな”と素直に思えたんです。もう、今年で辞めよう、と」

 その松坂の母校である横浜に、長男が進学するのだから人生は分からない。「自分の子供が横浜へ行くことになるとは思ってもみなかった。僕は勝手にご縁を感じているんです」。屈託のない笑みを浮かべながら、自身の4年後に同じ「甲子園優勝投手」となった松坂に思いをはせた。=敬称略=(森田 尚忠)

 ◇峯 謙介(みね・けんすけ)1977年(昭52)6月30日生まれ、佐賀県出身の45歳。佐賀商2年時の94年夏に甲子園出場を果たし全国制覇。JR九州で4年間プレーし、その後はひらまつ病院軟式野球部で37歳まで現役を続けた。右投げ左打ち。

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