剥き出しの本気 それが矢沢のライブ 72歳燃え尽きぬ挑戦

[ 2022年8月9日 11:30 ]

矢沢の金言(9)

1977年8月、初の日本武道館公演を前に客席に座って真剣な表情でステージを見つめる矢沢永吉
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 いつ頃からだろう。俺がステージを計算しながら作り上げていくようになったのは――。

 会場の客席に座り、ひとりでステージを眺めながら音のタイミングとか音響や照明をチェックする。矢沢永吉がソロデビューした20代の頃からやっているルーティンだ。

 「演出による、出と引きの大切さ。これは言うまでもない。でもね、作り込めば作り込むほど“素の部分”が大事になってくるのよ。結局のところライブはそこの勝負。いかにその瞬間の直感で動けたのか、感情をどれだけ剥(む)き出しにできたのか。分かる?要は、どんだけお前、本気になれたのかってことよ。それが試されるのがライブなんだ」

 矢沢が日本の野外フェスに初めて出たのは03年。大阪の万博記念公園で開催された「ミート・ザ・ワールド・ビート」。現場で取材したが、事前告知なしのサプライズ出演だったため、いきなり現れた大御所に観客は面食らっていた。あちこちで客同士が「えっ本物?」と確認し合う状態で、しかも1曲だけ。会場の動揺は本人が去った後も続いていた。

 誤解を恐れず言えば、若者だらけのフェスには“場違いなビッグスター”だった。その観客の反応は何事にも鋭敏な矢沢に伝わらないはずがない。だが、そんなのお構いなしに、つばをまき散らしながら本気で歌いまくった。たった1曲だったのに、楽屋を出てのぞいていた山崎まさよし(当時31)がつばをのみ込んで言った。「永ちゃん、すげえ…」

 この時、矢沢もうすぐ54歳。どんなステージも常に「本気」であることが、誰よりも多くのライブを積み重ねてきた男の矜持(きょうじ)なのだろう。若者たちの渦に飛び込んでいく時に「俺は本気で矢沢を見せるぜ!」と自分に言い聞かせていた。

 3年後のロック・イン・ジャパン。フェスの経験を積んだ矢沢は気さくなトークで緩急をつけながら、どの出演者よりも声を響かせ、汗だくの剥き出しパフォーマンスで観客を熱狂させた。出番を終えて見ていた吉井和哉(当時39)が「永ちゃんの後じゃなくてよかったよ」と思わず漏らしたほどだ。

 矢沢はビートルズに出合わなければ、板金工になるつもりだった。趣味といえば部屋のインテリアや内装を考えたりするのが好きで、音楽を一定の仕組みの中で組み立てていく創造物と捉えれば「確かに、元々自分の性に合っていたのかもしれない」という。

 矢沢は昔から「自分に合ってるかどうかが、才能ってことだ」と言っている。それは比類なき歌声のことでも、卓越した作曲能力のことでもない。“素”の部分で勝負できるものを見つけようという、世代を超えたメッセージだ。

 サブスク解禁で狙う標的は若者。「年を取るってのは魂が老けることじゃない」という金言を地で行く挑戦。72歳のロックンローラーには自分を剥き出しにできる夢がまだまだある。 (阿部 公輔)

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