豊田泰光氏 死去 西鉄「野武士軍団」また一人…辛口評論でも人気

[ 2016年8月16日 05:30 ]

58年、西鉄黄金時代の一翼を担った豊田氏

 元プロ野球西鉄ライオンズ内野手でスポニチ本紙特別編集委員の豊田泰光(とよだ・やすみつ)氏が14日午後10時41分、神奈川県川崎市の病院で「誤嚥(ごえん)性肺炎」のため死去した。81歳だった。西鉄で1956年から日本シリーズ3連覇を達成。現役引退後は86年から25年間にわたるスポニチでの評論活動などマスコミ界でも活躍した。茨城県日立市出身。23日に通夜、24日に葬儀・告別式を行う。

 豊田氏は2年ほど前から体調を崩し、歩行困難も加わって介護が必要となり、昨秋から川崎市の有料介護施設に入所していた。8日に「誤嚥性肺炎」を患い、同市内の病院に緊急入院。妻・峯子さん(80)、長男・泰由さん(57)ら家族の看病で症状はいったん回復した。14日には「先生の指導でリハビリを始めるまで病状が安定してきた」と泰由さん。そのため家族は病室を離れたが、その後に体調が急変し、帰らぬ人となった。

 水戸商(茨城)の主将として1952年夏の甲子園に出場し、選手宣誓をした。立大進学を予定していたが、父親が急病で倒れ、経済的な事情からプロ入りを決意。53年に西鉄に入団すると、プロ1年生がチーム内で遠慮なくものを言い、肩で風を切って歩いた。「怪童」と呼ばれた1年先輩の中西太氏は「私でも球拾いなど雑用をしていたのに、彼は見向きもしなかった。大変な新人だった」と述懐するほどで、打っては打率・281、27本塁打で新人王。27発は86年に西武・清原に31本で抜かれるまで、高卒新人最多記録だった。

 「野武士」や「闘将」と呼ばれる気性の激しさでバッティングにおける「気」の大切さを実証。三原監督が考案した「2番から強打者が並ぶ流線形打線」の核として活躍した。56年は僚友・中西と激しい首位打者争いを展開し、打率・325で僅差でタイトル獲得。遊撃手の首位打者は54年阪急・レインズ、2010年ロッテ・西岡(現阪神)と歴代3人だけだ。

 西鉄は同年から日本シリーズで3年連続で巨人を撃破。豊田氏はシリーズ通算打率・362と無類の勝負強さを発揮し、「鉄腕」稲尾和久とともに立役者となった。56年はMVP。球史に残る3連敗4連勝の逆転劇を演じた58年は7試合連続安打、シリーズ最多記録の4本塁打をマークした。

 63年に移籍した国鉄では2試合連続代打サヨナラ本塁打(68年)の離れ業を演じた。仲良しグループとは無縁で、現役引退後、コーチ専任でユニホームを着たのは72年、近鉄での1年だけ。以後はスポニチ本紙をはじめマスコミ界で評論活動を展開し、野球週刊誌の「オレが許さん!」、経済紙の「チェンジアップ」などのコラムも人気を呼んだ。妥協のない「辛口」評論が野球界に影響を与えたと評価され、現役引退から37年たった06年に特別表彰委員会による選出で野球殿堂入りした。

 ▼中西太氏(西鉄でチームメート)豊田は“戦友”の一人でした。1年後輩でしたが、ふてぶてしく負けん気が強かった。野武士軍団といわれたチームにあって、闘志をむき出しにするタイプ。三原監督に鍛えられ、球界を代表するショートに育った。ご冥福をお祈りいたします。

 ◆豊田 泰光(とよだ・やすみつ)1935年(昭10)2月12日、茨城県生まれ。水戸商から53年に西鉄に入団し、正遊撃手として西鉄黄金期を支えた。62年には中西太兼任監督の下、助監督を兼任も翌年国鉄移籍。68年からは兼任コーチとなり、同年8月24、25日の中日戦では史上初の2試合連続代打サヨナラ本塁打を記録。翌69年限りで引退し、72年には近鉄の打撃コーチを務めた。ベストナイン遊撃手6回、オールスター出場9回。06年に野球殿堂入り。現役時は1メートル76、82キロ、右投げ右打ち。

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