キャイ~ン 48歳の若さで旅立った「3人目のキャイ~ン」 コンビの思い貫き、ケンカしながらも固い絆

[ 2022年10月19日 11:59 ]

お笑いコンビ「キャイ~ン」のウド鈴木(左)と天野ひろゆき
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 お笑いコンビ「キャイ~ン」が18日、テレビ朝日系「証言者バラエティ アンタウォッチマン!」(月曜後11・45)に出演。「3人目のキャイ~ン」と言われ、24年前に亡くなった初代マネジャーの思い出を語った。

 ウド鈴木と天野ひろゆきは当初、別々に事務所入り。天野は作家志望の相方とコンビを組んでいたが解散し、91年にコンビを結成。それから2年のうちに「生ダラ」や「ビートたけしのお笑いウルトラクイズ」など数々の番組に出演するようになった。それを陰で支えていたのが初代マネジャーの矢島秀夫さんだ。天野は「なんでも話せる関係でした。今思えば生意気なこともたくさん言いました」といい、ウドは「社内では立場が上だった矢島さんだが、車を運転するのが好きだという理由で20歳年の離れた僕らを毎日送迎してくれた。当時はそんな矢島さんの優しさにとにかく甘えていた」と、芸人思いの矢島さんとともに力を合わせて芸能界の階段を上がっていった。

 94年には事件が。当時、デビュー間もなくとがりまくっていたキャイ~ンは、ライブで力をつけ、テレビの仕事に意気込んでいたが、矢島さんがとってきた仕事は「アイドル水泳大会」。仕事内容を聞かされずに現場に行くと、アイドルがプールの上を渡るための発泡スチロールを持つという仕事で、天野は「この仕事は勘弁してください。こんなことするためにこの世界に入ったんじゃない!」と爆発。「仕事だからやりなさい」という矢島さんと口論になったという。天野は「矢島さんも俺の気持ち察したんだろうね。矢島さんの気持ちもわかるから入り混じって泣けてきちゃって。それでも最後まで出なかった。楽屋に閉じこもって。これは俺出られないって。それで楽屋のモニター見てたら、ウドちゃんがノリノリでやってた」と苦笑しながら振り返った。

 「ザ・芸能界」な仕事にも「それも夢だもの!」とノリノリで仕事するウドに対し、少しのプライドが邪魔をして素直になれない天野。矢島さんは、事前に内容を伝えずに断れない状況にして仕事をさせることもあった。ある時は何も知らされずにフジテレビへ行き、楽屋に到着して初めて「めちゃイケ」の前身となる「めちゃモテ」に出演することを知らされたことも。断れない状況の中で出演し、「めちゃイケ」の出演オファーもあったが、「グループの中では自分たちの良さが出せない。キャイ~ンとして番組が持てるように頑張っていこう」とコンビとしての思いを貫き、「めちゃイケ」のオファーを断ったという。天野は「ナインティナイン中心でやっていく流れが少し固まっている時に、僕たちはここに入って輝けるかどうかっていう。あと、僕たちを同じように買ってくれてた番組スタッフがいて、その時にじゃあ僕たちは応援してくれてる人たちと一緒に番組をやろうと。そういう風にやりたいと思って。めちゃイケとは別の道で頑張ろうと思ってたんです」と回想した。

 そんな中、矢島さんが珍しく強い口調で「この仕事はやった方がいいと思う。将来、天野がMCになる時にきっと役に立つ」と、すすめてくれた仕事がラジオの帯番組のパーソナリティだった。天野単独でパーソナリティを務めると、その後、キャイ~ンをMCに置く番組が増えて目論見は的中し、コンビは矢島さんへ信頼を寄せるようになった。事務所の大先輩である関根勤は「(矢島さんは)相当キャイ~ン好きだったんじゃないかなあ。手ごたえあったんじゃない?第2のコント55号で。僕と小堺くんはピンだったから、コントで売れたっていうのは第2のコント55号で。浅井企画を背負っていくというね」と証言した。

 しかし、ある時、矢島さんに異変が起きた。明らかにおかしな音がする咳をしており、なかなか病院に行かなかったが、ようやく検査すると喉頭がんが発覚。「ごめんな、大切な時に、でもすぐに治して現場行くからな」と笑って気丈にしていたといい、「やせ細った自分を見せたくない」という矢島さんの意思でお見舞いを受け付けなかったため、キャイ~ンは心配が募る中でも一つ一つ仕事をこなすしかなかったという。98年秋に夫人から「もうダメかもしれない」と一報を受け、病室で再会がかなった。ウドは「最後の最後まで自分の命よりキャイ~ンのことを大切に考えてくれていた」と回想した。

 1998年9月5日、48歳の若さで矢島さんは天国へ。ウドは「天国の矢島さんを笑わせたい!」、天野「今でもそばにいて、『天野、お前が何がやりたいんだ』と言ってくれてるから頑張れています」とメッセージをつづった。

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2022年10月19日のニュース