【あの甲子園球児は今(11)桐生第一・正田樹】40歳になっても、左腕を振り続ける男の記憶

[ 2022年8月15日 07:30 ]

40歳になっても、松山で投げ続けている正田樹
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 1999年、あの夏の主役は、確かに正田樹だった。

 誰もがうらやましがるような甲子園優勝投手の大きな肩書だが、40歳となった桐生第一の左腕エースは「甲子園で優勝したからといって、特別よかったことはないですよ」と笑う。

 初戦の比叡山戦で、あと一歩で完全試合という1安打完封を達成すると、大差となった仙台育英との2回戦で9回のマウンドを後輩の一場靖弘に譲っただけで、それ以外はすべて先発完投した。計6試合、53回を投げて、3完封。防御率0・85は圧巻だった。

 あれから22年。引き締まったスタイル、真っ黒に日焼けした顔は、17歳だった、あの夏と大きく変わらない。

 卒業後はドラフト1位で日本ハムに入団し、3年目には新人王に輝いた。その後は阪神に移籍し、台湾プロ野球では最多勝も獲得。ドミニカ共和国のウインターリーグに単身で武者修行し、レッドソックスとマイナー契約も交した。

 春季キャンプで解雇となり、メジャーの夢はかなわなかったが、BCリーグ・新潟を経験し、12年からヤクルトでプレー。2年間で39試合に登板し、1軍で2952日ぶりの白星もマークしたが、13年が最後のNPBとなった。

 現在、正田は愛媛県松山市に在住する。14年5月から、四国アイランドリーグplusの愛媛マンダリンパイレーツでプレー。今季から、投手コーチも兼任している。

 「松山に来て、今年で9年目。日本ハムにいたのが7年間だったから、群馬で生まれ育った18年の次に長くなりましたよ」

 若い頃に140キロ台後半を計測した直球も、今では130キロ台だ。「この前投げたときは、135キロでした」。それでも、ストライクを簡単に投げ込んで、打者と勝負することはできる。

 いつか現役引退する日は来るが、簡単にマウンドを降りるつもりはない。「若い子たちに負けたくないという気持ちはめちゃくちゃある。昔より、今の方が強いかもしれない」と明かす。

 登板機会は以前より減った。今季は7試合に登板し3勝1敗、防御率2・84。それでも、プロ入りした頃から、ずっと気に掛け、応援してくれる人たちもたくさんいる。「これが最後のマウンドになると思って投げなさい」。そんな言葉で激励してくれる恩人がいた。心にしみた。

 それからは、「今日が最後かもしれない」と思って、1球1球後悔を残さないように左腕を振っている。米国、中南米、台湾、セ・リーグ、パ・リーグ、そして独立リーグ、数々の経験を経て、正田は「過去」にこだわらず、「今」を全力で生きる。

 そんな中で、あえて甲子園の思い出を聞いた。大歓声を浴び、しびれるようなマウンドよりも、忘れられない記憶がある。それは、初めて聖地に足を踏み入れた高校2年夏だった。

 中日でも活躍した左腕エース・小林正人と、ロッテに進んだ寺本四郎の投げ合いで始まった明徳義塾との初戦だ。

 同点の延長10回1死二塁、「次の打者からいくぞ!」。ベンチの指示を受けた背番号13の控え投手はブルペンで、登板の準備を整えていた。ところが、2番手・萩原の暴投で、二塁走者が一気に本塁まで生還した。

 まさかのサヨナラ負け――。夢にまで見た甲子園のマウンドに、16歳左腕は上がることができなかった。

 「もし、あのとき投げていたら、次の夏に甲子園で優勝できなかった。あそこで投げられなかったから優勝できたんです」

 野球って、奥が深いからやめられない。40歳の夏、舞台が替わっても、正田はヒリヒリとした熱さを感じている。=敬称略=(横市 勇)

 ◇正田 樹(しょうだ・いつき)1981年(昭56)11月3日、群馬県生まれの40歳。99年、桐生第一3年夏の甲子園で3完封などで優勝。同年ドラフト1位で日本ハム入団。02年に新人王を獲得し、07年に阪神移籍。その後は台湾・興農―レッドソックス―BC・新潟、ヤクルト、台湾・ラミゴ――四国IL・愛媛と渡り歩く。愛媛9年目の今季は投手コーチも兼任する。1メートル88、88キロ。左投げ左打ち。

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