【高校野球 名将の言葉(11)海草中・杉浦清監督】嶋清一の偉業に「これで本望。思い残すことはない」

[ 2022年8月15日 08:00 ]

海草中優勝翌日、甲子園大プールにて。(右から)嶋清一、杉浦清監督、古角俊郎、松下正晴(1939年8月21日)=故・古角俊郎氏遺族提供=
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 和歌山・海草中(現向陽)の嶋清一は夏の甲子園大会で全5試合を完封、しかも準決勝、決勝を連続ノーヒットノーランという史上唯一の偉業を成し遂げた。1939(昭和14)年の第25回全国中等学校優勝野球大会(今の全国高校野球選手権大会)である。

 嶋は明大進学後、戦前最後の主将を務め、学徒出陣で海軍に入隊。1945(昭和20)年3月29日、海防艦に乗り、ベトナム沖を航行中、米潜水艦の雷撃を受け、戦死した。24歳の若さだった。その悲劇性も相まって「伝説の左腕」と呼ばれる。

 この全国優勝当時の監督が杉浦清だ。中京商(現中京大中京)時代、遊撃手として31―33年、史上唯一の夏の甲子園大会3連覇に貢献。当時明大の学生だった。優勝後に語った杉浦の談話が雑誌『アサヒ・スポーツ』(朝日新聞社)に残っている。

 「十分の実力を蔵(ぞう)しながら、空(むな)しく神経痛のためにその全力を示すことのできなかった嶋もこれで本望なら、私としても何も思い残すことはないと考えている」

 本望、思い残すことはない――とは「嶋は立派な投手であるということを全国に証明したかった」という杉浦の宿願が果たせたという意味なのだが、時代、時局を思えば、ドキリとさせられる。

 甲子園球場のスコアボードには「心身鍛錬」「総力興亜」と戦時スローガンが大書、掲示されていた。大会終了後の9月1日にはドイツがポーランドに侵攻し、第2次世界大戦になだれ込んでいく。甲子園大会も翌40年を最後に中断となった。41年12月には日本が米英に宣戦布告、太平洋戦争に突入する。

 杉浦の談話にある「神経痛」は「意志薄弱」「精神的動揺」と指摘された嶋を気遣った微妙な表現だと言える。

 37年夏は準決勝で中京商、38年春は2回戦で再び中京商、38年夏は1回戦で平安中(現龍谷大平安)、39年春も三たび中京商に敗れた。いずれも終盤に制球を乱し、四球から崩れたのが原因で、精神面の弱さが問題視されていた。

 『嶋清一 戦火に散った伝説の左腕』(彩流社)の著者、山本暢俊は杉浦について<嶋の萎縮していた才能を開花させ、その瀬戸際でついに「男」にした>と書いた。

 杉浦の功績を書くには前監督の長谷川信義を書かねばならない。嶋が2年生当時、投手に抜てきしたのが長谷川だった。海草中1期生で野球部強化に心血を注いだ丸山直広が明大監督・谷沢梅雄に直談判し、紹介された。長谷川は京都二中―明大OB。戦後48年にはプロ野球・大陽監督、プロ野球審判員を務め、スポニチ本紙で高校野球評論を書いた。

 長谷川は倒れた選手にもノックを浴びせ、カンフル注射を打ちながら練習を続けた。嶋にはステップ位置の矯正のため、くわを置いて投球練習させた。嶋も「長谷川監督の教えを肝に銘ぜよ。自分は何処(どこ)までもプレートを死守するのだ」と感謝の思いを書き残している。

 嶋4年時の38年5月、長谷川が召集された。丸山は再び谷沢に相談、推薦された候補者のなかから杉浦に後任を頼んだ。海草中が連敗する中京商出身だったことも理由の一つだった。

 当時明大の学生だった杉浦は臨時監督として7月、六法全書を手に海草中にやって来た。スパルタ式の長谷川とは好対照で、ミスをしても怒らない。巧みな話術と合理的・論理的な指導で選手たちはとりこになった。

 この38年夏は甲子園に出場を果たしたが、1回戦で平安中に逆転負けを喫している。杉浦は明大に帰っていった。

 その後は監督不在。練習は最上級生で主将となった嶋を中心に幹部選手の合議制で進められた。年末冬休みに杉浦が臨時コーチを務めている。

 39年6月、丸山は再び杉浦に監督就任を要請した。当時杉浦は明大大学院に進み、高等文官試験(高文)に向けて受験勉強中だった。今で言う国家公務員総合職試験で合格すれば行政官、外交官など高級官僚に登用された。明大先輩でタイガース主将だった松木謙治郎が勧誘しようとしたが「高文の勉強中と聞いて退散してきた」との逸話がある。

 それでも杉浦は海草中監督を引き受けた。明大教授連中が説得、引きとめるなか、「男には義理があります」と高文受験をあきらめて赴任した。

 「私が個人的にコーチをしなければならない中等学校は母校中京商をはじめ他にもたくさんあったのだが、結局また海草中学を引き受けたというのもただこれだけの理由。“嶋は立派な投手である”というのを全国に証明したいからだったのである」。先の『嶋清一』で山本は<杉浦の「嶋を男にしたい」という想いは嶋の心の琴線に響いたはずだ>と記している。

 杉浦も嶋も相当な覚悟をもって臨んだ最後の夏だったのだ。全国優勝を果たした翌日、海草中の選手たちは甲子園球場横にあった甲子園大プール(甲子園水上競技場)で遊んだ。杉浦とともに笑顔を浮かべる嶋の写真が残っている。 =敬称略= (内田 雅也)

 ◇杉浦 清(すぎうら・きよし) 1914(大正3)年7月20日生まれ、愛知県西尾市出身。中京商(現中京大中京高)遊撃手として31~33年、夏の甲子園大会3連覇に貢献。明大では37年春―38年秋と東京六大学リーグ4連覇。海草中(現・向陽高)監督として39年夏、全国優勝に導く。召集・出征を経て戦後46年、32歳で中日入り。大洋(現DeNA)、国鉄(現ヤクルト)と通算8年間プレー。48年には遊撃手シーズン最多補殺のプロ野球記録(当時)をつくった。46―48年(選手兼任)、63―64年と中日監督を務めた。退団後は野球評論家、中日OB会長。87年8月22日、73歳で他界。 

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