1266球投げ抜きマウンドから消えた…大野倫氏 佐々木登板回避を「10年後評価される」

[ 2019年8月25日 21:31 ]

1991年夏の甲子園準優勝、沖縄水産の大野倫投手
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 今夏の高校野球で大船渡(岩手)の163キロ右腕・佐々木朗希投手(17)の県予選決勝の“登板回避”をきっかけに、「投手生命を守る」ための球数制限が話題を集めたが、今から28年前、佐々木投手をはるかに上回る1266球を一人で投げ抜き、チームを甲子園準優勝に導いた沖縄水産のエース、大野倫氏(46)が25日放送のTBS「消えた天才SP」(日曜後6・30)に出演。この甲子園決勝を最後にマウンドに立てなくなったことについて「全然、悔いはない。野球人生が終わってもいい覚悟で投げた」と語った。

 1991年夏の甲子園決勝、沖縄水産VS大阪桐蔭。
 このマウンドに、真っ黒に日焼けした精悍な顔つきの沖縄水産のエース、大野氏の姿があった。試合は強打の大阪桐蔭打線に打ち込まれ、13-8で敗退したが、予選から甲子園決勝まですべて一人で投げ抜いた「不屈の天才投手」大野氏にも、惜しみない拍手が送られた。

 だが、代償はあまりにも大きかった。
 投球数は県予選493球、甲子園773球の計1266球。今年、話題になった佐々木投手の投球数435球の3倍近い。これだけの酷使に身体が悲鳴をあげないはずがない。しかも、大野氏の場合、県予選の直前、すでに右ひじを骨折していたという。監督、チームメイトにけがを隠し、ひとりで投げ続けた。

 その結果は疲労骨折、靭帯損傷、そして投手生命断念。
 超高校級投手としてプロの注目を集め、8球団のスカウトが「毎週、グラウンドに来ていた」。小さいころからの夢「プロ野球選手になる」をつかむ寸前だった。

 地元・沖縄で取材に応じた大野氏は「野球人生が終わってもいいという覚悟を持って投げた」と振り返った。

 「監督の指示では?」との質問には「僕自身の意志です」ときっぱり。そして「甲子園の優勝がないと沖縄の戦後が終わらないという思いだった」と当時の心境を説明した。

 沖縄県勢は1958年、首里高校が甲子園初出場。当時は米国占領下のため、ナインも応援団もパスポートを持参しないと聖地を訪れることができなかった。以来、甲子園はいち高校生の大会ではなく、「沖縄県民がここまで発展したんだ」と“本土”の人々にアピールする場になったという。

 大野氏が2年生のとき、甲子園で準優勝した。「あと一歩で優勝…」と県民は熱狂、声援にも力が入った。そしてエース大野氏に、オール沖縄の悲願が託されたのだ。

 「いち高校の代表であれば、マウンドを降りていた。県民の代表としてマウンドに立っていた。応援してくれる人たちに応えないといけない」との思いで痛みに耐え続けたという。

 「後悔? 全然、悔いはないです」。

 その後、大野氏は栽弘義監督のススメで九州共立大に進み、打者として再スタートを切った。監督は「大野、もうマウンドには立てないかもしれないが、お前にはバットだってあるじゃないか」と激励した。

 そして、あの甲子園決勝から4年後、大野氏は打者としてプロ野球・巨人からドラフト5位で指名され、入団。子供のころからの夢をついにかなえたのだ。ドラフト同期には、仁志敏久や、清水隆行らがいた。

 大野氏はいまは沖縄で中学野球の監督などをして子供たちに野球の楽しさを教えているという。

 スタジオでVTRを見ていたタレントのヒロミ(54)は「今、いろいろと問題になってるじゃない。僕らも(大野氏の覚悟は)美しいと思っちゃうけれど、選手のことを考えたら、ちょっと考えないといけないかな…」と指摘した。

 最後に、MCの「バナナマン」設楽統(46)が、論争に発展した佐々木投手の“登板回避”問題について「大野さんに聞いたら『もし、僕が監督ならおそらく決勝のマウンドにあげてた。投げさせない決断はできない』。続けてあの監督の投げさせない決断は『10年後、評価される』とも言っていた」と明かした。

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