“義足のアスリート”山本篤が引退会見 指導者&ゴルフで世界を目指す

[ 2024年5月27日 15:21 ]

義足とポーズを取る山本篤、右にはパラリンピックで獲得した3つのメダルが輝く(神戸市内のホテルで)
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 パラリンピック陸上競技で北京、リオデジャネイロの2大会で男子走り幅跳び銀メダルを獲得した山本篤(42=新日本住設)が27日、神戸市内で引退会見を行った。

 「自分自身が可能性を見失った段階でやめようと思っていた。パリではメダルが厳しいよねと言われて戦うのは、プロとして違う。自分に嘘はつけない」と引退に至った理由を話した。

 山本は今月19日に神戸世界パラ陸上の男子走り幅跳びT―63クラスに出場。6メートル39を跳んだが5位に終わり、パリ・パラリンピックの出場権を得られなかった。パリ大会には日本パラ陸上選手権(6月8日~三重)で切符を得ることが可能だが「棄権する予定でいます」と話した。パリ大会でのメダル獲得が厳しいと判断したためだ。

 「5位に終わったその夜(19日)に考えて、20日に決めた。これから先、一つは指導者として義足やパラスポーツをもっと知ってもらう活動を。それと、ゴルフを全力で取り組みたい。日本でトップになって世界へ。障害者の全米オープンに参加できたら。これは終わりのない旅になりそうですが」と山本は話す。

 走り幅跳びと短距離走に加えて18年平昌冬季パラ大会にはスノーボードでも出場した“義足のパイオニア”は、これからも「楽しむこと」を求めて歩み続ける。

 競技生活の思い出は「一番嬉しかったのは16年に6メートル56の世界記録(5月1日=日本パラ陸上選手権、鳥取)を出したとき。十数日しか一番じゃなかったんですが、歴代の選手たちがもっていた記録を超えられた瞬間でもあったので」と振り返る。04年アテネ大会には届かず、走り幅跳びの頂点を目指し始めたのが05年。11年かかった一番の座だった。

 「リオ大会は金を目指したのに銀。凄く悔しかった。思えば北京大会の代表になってマスコミのみなさんとのセッションがあったのですが、来られたのは社会部の方でした。東京パラリンピックが決まってから取り巻く環境が大きく変わりました。大きく報道されてパラアスリートの露出が増えました。スポーツ欄に載せてもらえるのが嬉しい。僕はアスリートであって、スポーツ選手ですので」と20年を超える長い陸上競技生活を笑顔で語りつくした。

 ◇山本 篤(やまもと・あつし)1982(昭57)年4月19日生まれ、静岡県掛川市出身。高校2年春休みの交通事故で左脛骨を粉砕骨折、大腿から切除した。高校卒業後は義足作りを目指して進学するが、陸上競技選手としての挑戦を始める。04年アテネパラリンピックは派遣記録に届かず出場できなかったが、大体大に進学して健常者と同じ陸上競技部に所属して走り幅跳びと短距離走の記録を大きく伸ばす。08年北京大会の男子走り幅跳び(T―42・片大腿切断クラス)で銀メダルを獲得。日本の義足アスリートの初メダルとなった。12年リオデジャネイロ大会でも走り幅跳びで銀メダル。400メートルリレーでは銅メダルを獲得した。17年に新日本住設とスポンサー契約してプロに転向。18年平昌冬季大会ではスノーボードでも出場している。21年に行われた東京大会は走り幅跳びで4位だった。

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