追悼連載~「コービー激動の41年」その14 策略絡みのドラフト会議

[ 2020年3月1日 09:30 ]

ステイプルズセンターで記念撮影に興じるレイカーズのファン(AP)
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 【高柳昌弥のスポーツ・イン・USA】1996年のNBAドラフト。会場がどよめいたのは13番目のホーネッツがコービー・ブライアントの名を告げたときだった。

 なにしろホーネッツはコービーがワークアウト(事前テスト)に行かなかった数少ないチームのひとつ。同チームのボブ・バース社長(当時)も「彼がプロ入りを表明したらきっとどこかのチームが指名するだろう。でもチームを助けられるようになるまでにどれくらいかかるのだろうか?1シーズンには82試合と100回の練習がある。それに耐えられるとは思えない。だから高校生を指名したくない」と獲得に否定的な見解を示していた。

 だからコービーも心の準備ができていなかったようで、テレビの映像に自分の顔が映し出されると「えっ?」と驚くような素振り。14番目の指名権はキングス、15番目はサンズが持っていたので、心の中では西地区のチームの名前が浮かんでいたかもしれない。

 直後のコメントは「母は僕の太腿をつかみ、姉は手を握りしめてきた。父はウインクしたあと泣き出してしまうし大変だったよ。でもこれでグランマ(Granma=祖母)と一緒にプレーができるんだと思ったのでうれしかった」というもの。グランマとは当時ホーネッツの主力フォワードで、おばあちゃんの格好でCMに登場して人気のあったラリー・ジョンソンのことで、壇上に上がってホーネッツの帽子をかぶったコービーはすぐに先輩との出会いに思いを巡らせていた。

 だがシナリオはすでに書き換えられていた。NBAファンを驚かせた本当のドラマはこの1時間後に始まったのである。

 なぜ高校生の獲得に難色を示していたホーネッツはガラリと方針を変えたのだろう。それにはまずドラフト前に終了していた1995~96年シーズンを分析する必要がある。ホーネッツは41勝41敗。東地区全体では9位でプレーオフ進出(8位まで)を逃していた。チーム最多得点をマークしたのはグレン・ライス(21・6点)で、ドラフト直後にコービーが「一緒にプレーしたい」とその名を口にしたラリー・ジョンソン(20・5点)が2位。ケニー・アンダーソン(15・2点)と、ウォリアーズのステフィン・カリー(31)の父親でもあるデル・カリー(14・5点)の両ガード陣が3位と4位に名を連ねていた。

 プレーオフには進出できなかったものの、個人成績が物語っているように得点力に困っているわけではなかった。つまり高校出身のガードなどまったく必要がなかったのである。ただし弱点があった。それはマット・ガイガーが務めていたセンター。ガイガーは216センチながら攻守両面で信頼感が薄かった。出場77試合で先発は50試合。軸になるセンターを欠いたことが、プレーオフへの道を絶たれる要因になった。

 そこでチームは動いた。「頼りになるセンターを探せ」がフロント陣の合言葉。そして目に留まったのがこの年、平均12・9得点をマークしていたレイカーズのブラディ・ディバッツ(現キングス球団社長)だった。

 セルビア(旧ユーゴスラビア)出身で、1989年のドラフト1巡目指名選手(全体26番目)。欧州出身選手のパイオニアとしてNBAに入り、1994~95年シーズンには16・0得点、10・4リバウンドをマークしている。故障にも強く、頼りになるインサイド・プレーヤーだった。

 ではディバッツ獲得にはどうすればいいか。そのとき悩んでいたGMを含むスタッフの頭にピカっと閃光が走る。日本式に言えば、「エビで鯛を釣ればいい…」なのかもしれない。その大事な鯛を釣るために、ホーネッツはドラフトで意図的にフレッシュなエビ?つまりコービーを指名したのである。

 「さあ話を進めよう」。全体13番目で17歳の高校生を指名したホーネッツはその1時間後、極秘裏にレイカーズ首脳陣と接触。コービーとの交渉権をディバッツとの交換材料にして“商談”を開始したのである。(敬称略・続く)

 ◆高柳 昌弥(たかやなぎ・まさや)1958年、北九州市出身。上智大卒。ゴルフ、プロ野球、五輪、NFL、NBAなどを担当。NFLスーパーボウルや、マイケル・ジョーダン全盛時のNBAファイナルなどを取材。50歳以上のシニア・バスケの全国大会には一昨年まで8年連続で出場。フルマラソンの自己ベストは2013年東京マラソンの4時間16分。昨年の北九州マラソンは4時間47分で完走。

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