小出義雄氏を悼む…「褒めて育てる」指導法 有森さんとは平成を代表する師弟関係だった

[ 2019年4月24日 16:44 ]

96年アトランタ五輪に出場する有森裕子(左)を激励する小出義雄監督
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 陸上界の名伯楽、佐倉アスリート倶楽部の小出義雄代表(80)が24日に死去した。近年は入退院を繰り返すなど一進一退の状態が続いているとは聞いていたが、まさかこんなに早く逝ってしまうとは…。せめて来年の東京五輪で教え子たちが頑張る姿を見せてやりたかったと残念でならない。

 小出氏の指導法を一言で説明するなら「褒めて育てる」という表現が一番適切だろう。選手を褒めてその気にさせ、短所には目をつぶって長所を伸ばす。昭和の時代、日本のスポーツ界は指導者がスパルタ教育で選手を鍛え上げるのが当たり前だった。教える者と教えられる者との間には厳然たる上下関係が存在し、鉄拳制裁も容認された。小出氏はそんな昭和式指導法を否定し、指導中は常に笑顔を振りまいた。

 時代が平成に変わったばかりの89年春、小出氏が監督を務めていたリクルートに入ってきたのが有森裕子さんだった。後に92年のバルセロナ五輪で銀メダルを獲得し、2人は理想の師弟と称えられたが、実は巷で思われているほど一枚岩だった訳ではない。見えないところでは何度も対立し、ぶつかりあった。食事中に小出氏の目の前で有森さんが箸を叩きつけて席を立ったこともあれば、有森さんの入院中に小出氏が一度も見舞いに行かなかったこともある。小出氏は一時、自分の教え子のことを「有森先生」と呼んでいたほどだ。

 それでも有森さんが故障で走れなくなると「どんな時でも“せっかく”と思えばいいんだよ。せっかく神様が休めと言ってくれたんだから今はゆっくり休もうよ」と励まして見事に立ち直らせた。有森さんは96年のアトランタ五輪で銅メダルを獲得した後にプロに転向し、小出氏の下から離れたが、それ以後も引退するまで練習メニューは小出氏に頼りっきりだった。今でも「せっかく」は有森さんにとって「人生でもっとも大切な言葉」であり続けている。言いたいことを言い合いながらも、根っこの部分では太い絆で結ばれている。それが平成を代表する師弟の本当の関係だった。

 指導の現場から小出氏の姿は消えても、同氏のマラソンに対する情熱、そして教え子たちへの愛情はこれからも永遠に語り継がれていくことだろう。今度は教え子たちが来年の東京五輪で師匠に吉報を届ける番だ。(編集委員・藤山健二)

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