矢沢永吉が「BIG」になって気付いた音楽こそが人生の幸せ 山中湖の悲劇から単身渡米

[ 2022年7月19日 11:30 ]

矢沢の金言(6)

79年11月、映画「RUN&RUN」撮影のため渡米した矢沢
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 あれほど欲しかった「成功」を手にしたのに、なぜ矢沢永吉は日本を離れ、たった一人で米国へ渡ったのか。端緒は1978年8月の後楽園スタジアム公演で当時最大級の4万人余を動員した時。

 「まだメジャーでなかったロックの歌手で暴走族を従えた不良のイメージがあった矢沢が芸能界の頂点に立つなんて誰も考えもしなかった」(大手芸能事務所幹部)という。ただ、矢沢自身は「目指す目標がなくなった」と苦しんだ。「BIGになる」というシンプルな思考で駆け上がってきた中、翌年のライブはナゴヤ球場。後楽園を上回る舞台はもう見当たらなかった。

 一方でファンの熱狂は拍車が掛かった。後楽園では消防署の規制が入り、周囲を警察の機動隊が警戒。ナゴヤ球場には装甲車まで出動した。会場内でのケンカは恒例で、さらに自伝「成りあがり」のヒットでカリスマ化した中、山中湖の悲劇は起きたのだ。

 毎日、20~30台の車が真夜中にカーステレオとクラクションを鳴らしてやってきて“永ちゃんコール”まで起こる始末。おびえる子供たちと奥さんを連れてアパートに避難した。その後、家のあちこちに落書きがされ「E.YAZAWA」のロゴが入ったタイル張りの庭には壁板をはがしてたき火した跡があり、女性の下着が転がっていた時も。矢沢はたった3カ月しか住めなかった念願のマイホームを取り壊す時「家にだって魂がある」と悔しがった。

 普通の家庭をつくりたかっただけなのに、このありさまか――。「人生はサクセスだけじゃカタつかない」と知った中、転機は翌79年11月。ドキュメンタリー映画「RUN&RUN」の撮影で渡米。2週間の滞在だったが、誰も「矢沢」を知らないこの場所でならやり直せる。そう直感した矢沢は翌80年に、レコード会社のCBSソニーに何の不満もなかったが、全米デビューを確約した外資系ワーナー・パイオニアへ移籍。矢沢ファミリーと呼ばれたスタッフも解散させ、たった一人で米国へ旅立つ。

 「方向を見失った時、人間は…」という言葉は、音楽が成りあがるための手段だった矢沢が、音楽こそ人生の幸せにつながっていると気付いた瞬間だった。自分を愛して生きていこうと決めた時、一番大切なものが音楽だと確信したのだろう。

 この時、矢沢30歳。あれだけ好きだったタバコも、ほどなくしてやめている。“音楽こそ人生”という道を歩み始めた表れだろう。実際、矢沢のステージや歌声に「人生」がにじむようになってきたのも、この頃からだ。

 矢沢は山中湖に移り住む時、メルセデスベンツ450SEを買った。その後、何台も買い替えているが、あの頃の苦悩を知るこの白いベンツだけは手放さず、44年たった今もハンドルを握り続けている。(阿部 公輔)

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