矢沢永吉「方向を見失ったとき、人間は一番苦しい。俺には音楽があった」

[ 2022年7月19日 11:30 ]

矢沢の金言(6)

自宅を構えた山梨県の山名湖でたたずむ矢沢永吉。富士山が見えて湖がある自然豊かな場所で子どもを育てたいという夢と当時最高峰の外車「メルセデスベンツ450SE」を手に入れ、理想の生活が始まったはずだったが…
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 日本ロック史上最大のスター、矢沢永吉(72)がデビューからの50年間を自らの語録で振り返る大型連載「YAZAWA’S MAXIM 矢沢の金言」(毎週火曜日掲載)。第6回はその激動の人生で最も大きな岐路を迎えた1980年の言葉。自分の進む道が分からなくなった時、自分の得意なもの好きなもの一つ見つけられれば頑張れるかも――。人生で苦しい時に優しく響く名言です。(構成・阿部 公輔)

 ずっと信じていた。サクセス・イコール・ハッピーだと。だから上を目指して張って張って、走って走って、ヒットチャート1位、長者番付1位、後楽園スタジアム制覇と、全部手に入れたら全部解決すると思っていた。でも全然ハッピーじゃなかった。目標を見失い、ビリビリするものを全く感じなくなっていた。

 「金は入った。名前も手にした。だけど、寂しさは残った」

 これは矢沢だけじゃなく、世の中で頑張った人のほとんどが、ふと感じることだと思う。何かが違う、と。

 矢沢がピークを迎えた1978年6月。僕は念願のマイホームを山梨県の山中湖に建てた。その3カ月後。週刊誌が「噂の豪邸を山中湖で発見!」と暴露し、これが引き金となってファンが連日、自宅に殺到。夜逃げ同然で近所のアパートに引っ越す事態となり、落書きだらけになった我が家をやむなく取り壊した。住んだのは、わずか数カ月だった。馬鹿(ばか)みたい!

 こういう目に遭うの僕だけじゃないし、世界中、有名になる仕事では大なり小なりあると思うけど…。ダイアナさんなんかは僕の1万倍くらい辛(つら)かったんじゃないかな。だから程度の違いはあるけど、みんなそういう経験をしてるってことは後になって分かったよ。自分で選んだ道だけど…。

 「てっぺんまで行きたい!」それがこれだよ。当時は凄く辛かった。なぜ辛かったかというと、自分が今どういう立場にあるのかがよく分かっていなかったし、有名になるってことがどういうことなのかが、初めての経験で全然分かっていなかった。

 「芸能界なんてクソだと思った。芸能人なんてなるんじゃなかった」と自分で自分を呪ったし、週刊誌の連中がコトの重大さを知ると潮が引く早さでサッと逃げたのを見て、俺はマスコミと敵対するようになった。でも、今振り返るとそれだけ有名だったってことだね。矢沢が一気にバーンといったから。そこに持ってきて“生意気な矢沢”と“世間知らずな矢沢”でしょ。しかも経験もなく、青かった。今思うと馬鹿な俺…。

 山中湖に家を建てたのは、富士山が見えて自然豊かな場所で子供たちを育てたいってシンプルな理由だった。でも、あそこに家を建てること自体がマスコミの標的に自分からなりにいったようなもの。音楽性を広げるために自宅にスタジオも作って、ミュージシャンとしての自負ばかり大きくなっていて「矢沢お前、芸能人だよ」という当たり前のことを見失っていた。

 僕いつも言うよね。俺たちの世界は水商売ですって。普通の人がコツコツ額に汗して稼いだのとは違う、芸能界というところで稼いだカネなのよ。それを痛感したんだ、この時に。だからこんな目に遭うの。

 でも、ここで自問自答した。どうする?と。音楽やめんのか。もし続けるなら、どうすれば俺らしくまたビリビリできんのかって?

 80年3月。「日本でやれることは全てやった。アメリカで勝負する」と外資系のレコード会社に移籍。同年10月には矢沢ファミリーと呼ばれたスタッフも全員解散。俺が出した答えは、すべてを白紙にし、誰も矢沢を知らないアメリカでゼロからまた頑張る。翌81年初頭、単身渡米した。

 「方向を見失った時、人間は一番苦しい。俺には音楽があった」(80年公開、映画「RUN&RUN」)

 このシンプルな答えにたどり着けたことで、新しい扉を開けたい!もっと俺自身がハッピーにならなきゃと。山中湖のあの頃はいま思えば、人生の凄く大きなターニングポイントだった。こうして振り返ると、僕の人生、濃いねえ(笑い)。

 その上で今現役でロックシンガーをやらせてもらっている。来月にはまだ誰も有観客ではやっていない国立(競技場)でやっちゃおうかと。当日、声がちゃんと出るのか、野外なんで気温の心配もあるけど、サンキューって感じよ。だって、いろいろあったけどそれもこれも全部ひっくるめての“矢沢永吉”ですから――。

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